「愛は思っていたより凄まじいもの」早く離婚したいと思っていたのに夫の帰国が待ち遠しい【小島慶子】
エッセイスト・小島慶子さんが夫婦関係のあやを綴る新連載「愛夫記」が始まります。 この頃私は、夫のことばかり考えている。スーパーで刺身を見る。夫に食べさせたいと思う。薬局に行く。どの入浴剤がいいか考える。10年ぶりのバスタブありの生活だから、きっと喜ぶだろう。クリーニング屋さんの前を通る。ドライクリーニングなんて、オーストラリアでは一度も使わなかったはずだ。4月半ばの歩道には、桜の花びらがいっぱい。来年、満開の花を見たら夫はなんて言うかな。もうじき彼が帰ってくる。就活中の大学4年生の長男が一人暮らしの部屋を見つけたら、夫は10年余り暮らしたパースの借家を解約して、優しい大家さんにさよならを言って、日本に帰ってくる。それを私は、心待ちにしているのだ。もう離婚すると、一度は心に決めたのに。早く別れたいとつい数ヵ月前まで切望していたのに、これはいったいどうしたことだろうか。 27年前に出会って、程なく彼の部屋に転がり込み、3年同棲して結婚した。挙式では盃を交わして夫婦になった。白無垢を着るのはとっても嬉しかった。愛って何だろうなあと思った。彼と夫婦になるのは楽しそうだ。それって愛なんだろうか。多分そうなんだろう。だって結婚したいと思ったんだし。 幼い頃から、愛はいいものだとそこらじゅうで見聞きした。絵本にもテレビにも教科書にもそんな話がいっぱい。甘くて温かくて清らかな、とっても素敵なものなのだと。でも実際生きてみたら、愛は思っていたよりずっと凄まじいものだった。
誰よりも親切にしてくれて、誰よりも酷いことをした人
他人との間に芽生える親密な感情を何と呼べばいいのか、私は今もよくわからない。親子の愛なら実感がある。でも特定の性的パートナーとして位置付けられる他人との間に永続的に発生する代替不能の愛なるものって、よくわからないのだ。流行りの曲にも古典文学にも夥しい数の愛が歌われている。あれってつまりは一時的な性的執着と一方的な幻想が混ざったものではないのかしら。 けど、憧れはある。パースの浜辺で、波打ち際に水着で座って夕陽を見ている老夫婦なんか見るとジーンとしちゃう。ああ、あそこに愛らしきものがある。穏やかで確かな幸せがきっと二人の間にはあるんだわ。まだおじいちゃんがムキムキでおばあちゃんがプリプリだった頃から、ああして二人で海に入っているんだろうな。もしも来世があるのなら、次こそあんな関係を生きられますようにと願う。目の前の白い砂浜は、夕日に温まった金色の波に洗われてとっても美しい。私の人生にはこの先どこまでも色のない砂だけが広がっていて、骨みたいな枯れ木がポツンと1本立っているだけだ。そのイメージが、ずっと胸から消えなかった。 夫に死んでほしいと思ったことがある。どうか無事でと毎朝祈ったこともある。彼は誰よりも私に親切にしてくれた人で、誰よりも酷いやり方で私の魂を殺した人だ。人生最高の全き幸福と、それが根こそぎ崩れ落ちた瞬間は同じ人物によってもたらされた。なぜよりによって同じなのか。彼が縦に分裂して二人になればいいのにと思った。クソ野郎と、善良な夫に分かれてくれたらいいのに。でも夫はミドリムシではなく人間なので、縦に分裂したりしない。私も原生生物ではないので、夫を死ぬまで許さない自分と生きていかねばならなかった。 人を許すのは難しい。まずは相手を許すことを自分に許さなくちゃならない。だがそんな考えが頭を掠めようものなら、脳みその入り口に立っている憤怒の形相の慶子と、腹の底から呪詛を吐き続けている地獄の一遍上人像みたいな慶子が「お前何ひよってんだ!」と怒鳴りながら目を剥いて走ってきて、グイグイ脳みそから押し出されてしまう。あんなクソ野郎を許すなんてとんでもねえ、と慶子らはいう。いいところもあるなんて言ってんじゃねえ、また騙されてるぞお前はああ! とめちゃくちゃ叱られるのだ。 だけどこの世には、善良なクソ野郎や恨み深い慈悲の心なんていくらでも存在する。そういう矛盾を体現しているのが、人間という生き物だ。夫と私はミドリムシの夫婦ではなく人間の夫婦なので、善良でクソ野郎で恨み深くて慈悲深い、すごくめんどくさいユニットを組むことになった。
小島 慶子