ヒトとサルをつなぐ100年前の大発見、実は科学界の猛反発を覆した意外な逆転劇だった
あばかれた捏造
科学界でアウストラロピテクスに関する意見が大きく変わるまでには、それから数十年の月日が必要だった。ピルトダウン人を支持し、1925年にタウング・チャイルドについて「ばかげている」と言ったアーサー・キースは、1947年に「ダート教授は正しかった。私がまちがっていた」と認めた。 評価が一変した最大の理由は、ピルトダウン人が捏造だったとわかったことだ。1940年代にこの化石はなにかおかしいといううわさが広がり、1953年にはヒトの頭蓋とオランウータンの顎で作られたものであることが確認された。古く見せかけるため、意図的に傷やよごれまで付けられていた。 この一件によって、アフリカが科学的に注目され、化石が見つかるようになった。ダートの同僚だったロバート・ブルームは、タウング・チャイルドに触発され、南アフリカの鉱山と連携して研究を続けた。地下トンネルやダイナマイトで硬い岩を爆破する手法にも助けられ、ブルームは次々にアウストラロピテクスの化石を集めていった。 特に有名なのは、1947年に見つかった保存状態のよい成人の頭蓋骨で、これは「ミセス・プレス」と呼ばれるようになった。その数カ月後には、臀部と椎骨の一部が見つかり、アウストラロピテクスがまちがいなく直立歩行していたことがわかった。こうした発見が積み重なり、人類の起源を語るうえでアフリカは無視できない場所になった。 人類の祖先がアフリカにいたことが認められ、人類発祥の地はヨーロッパやアジアからアフリカに移った。同時にそれは、脳の大型化よりも直立歩行が先だったと認められることでもあった。
ルーシーの登場
ただし、見つかった化石は散発的で、20世紀後半になるまで、論争以外でアウストラロピテクスが注目されることはなかった。そして、タウング・チャイルドの発見から50年後、「ルーシー」と呼ばれることになる有名な化石が見つかった。 このルーシーには、アウストラロピテクス・アファレンシス(アファール猿人)という新たな種名が与えられた。400万年前から200万年前に生息し、やがてヒト属(ホモ属)につながったと考えられるこの種は、進化の系統において重要な位置を占めることになった。 この発見に関しては、とりたてて議論の的になることはなかった。すでにアフリカが注目されていたので、そこでこの化石が見つかったことに驚く人はいなかったからだ。直立歩行し、かなり小さな脳を持っていることも、当然と受けとめられた。ルーシーの発見こそ、小さな子ども「タウング・チャイルド」の頭蓋骨から始まった20世紀の物語の最後のピースと言えるだろう。 タウング・チャイルドは一般にはそれほど有名ではないが、ルーシーやその後の発見の土台となった。1970年代にエチオピアの丘陵でルーシーの骨が見つかるころには、「十分に土壌が耕され、肥料が撒かれていました」とウッド氏は言う。「あとは種さえまけば、自然に育つ状態だったのです」。タウング・チャイルドが歩いたからこそ、ルーシーが走れるようになったというわけだ。 タウング・チャイルドが認められるまでには、数十年が必要だった。それでも、最後に笑ったのはダートだった。ダートは1959年、『ミッシング・リンクの謎:人類の起源をさぐる』と名付けた著書で、この物語をふり返っている。
文=Paige Madison/訳=鈴木和博