東大が「真っ先に共産主義を唱える学校」になると予言した福澤諭吉 「反・東大」の思想史
日本の学歴社会の頂点に立つ東京大(帝国大)に対し、慶応義塾を創設した福澤諭吉、早稲田大など在野の対抗勢力は、いかに対抗し闘ったのか。5月に出版された『「反・東大」の思想史』(新潮選書)が、東大を巡る複雑かつアンビバレント(二律背反)な感情を描き出していて興味深い。特に福澤は帝大を批判しつつ、息子2人を帝大に通わせようとし、さらには帝大への共産主義の侵食を予言もしていた。同書の一部を紹介する。 【画像】『「反・東大」の思想史』の表紙 ■冷遇に態度硬化させ 筆者の尾原宏之さんは昭和48年生まれ。早大出身で、NHKに入局して芸能番組などを手がけ、退職して現在は甲南大学教授を務める。『「反・東大」の思想史』については「東大を中心とした構図で日本の近現代史を見てみた」と語る。 同書などによると、福澤が開いた慶応義塾は安政5(1858)年に創設した蘭学塾を起源とし、明治4(1871)年設置の文部省より歴史は古い。開塾5年の文久3(1863)年から明治4年までの入門者数は1329人を数え、「日本中苟(いやしく)も書を読んで居る処は唯慶応義塾ばかりという有様」(「福翁自伝」)という存在だった。 しかし、10(1877)年に東京大が創設、19(1886)年に帝国大へと再編される一方で、慶応義塾は政府に特別扱いを拒否されるなど冷遇が続いた。それとともに福澤は態度を硬化させ、教育に国がカネを出すことを否定する論陣を張り、さらには官学の全廃を求めるようになる。 一方で、東京大が創設された翌年、福澤の長男、一太郎と次男、捨次郎が東京大学予備門に入学した。尾原さんは「現代でも私大教員が自分の子女を勤務校ではなく東大に進学させることがたまに話題になるが、福澤はその先駆けであった」と書く。しかし2人とも退学しており、大きな理由は健康状態にあったとみられる。 やがて福澤は「富家の師弟は上等の教育を買ふ可く、貧生は下等に安んぜざるを得ず」(「官立公立学校の利害」)として、金持ちの子弟が高度な教育を受け、貧乏人は低いレベルの教育で満足するのが当たり前だと断言し、官公立学校が学費を安くして「貧家の子弟」に門戸を開いていることを批判するようになる。 その理由の一つが、「学問を修め精神を発達させると、どうしても社会の不完全さが目につき、不満を抱くようになる」(同書)からだった。「天は人の上に人を造らず」とした自著「学問のすゝめ」を否定するような主張だが、福澤が同時期に周囲に語り出したのが、共産主義への懸念だったという。