東大が「真っ先に共産主義を唱える学校」になると予言した福澤諭吉 「反・東大」の思想史
尾原さんは「知識を得てもポストを得られない人が不満を持ち、結社集会や新聞演説といった手段に走り、暴れだす。それをあおる思想が西洋で出てきていることへの福澤の気づきは、非常に早かった」と指摘する。
ある者が「真先に立って共産主義を唱える学校が日本にあるとすれば、それは慶応義塾でしょう」と尋ねたのに対し、福澤は「それは違う。将来真先に立って共産主義を唱える学校は政府の学校・帝国大学に決りきっている。今に見ろ、この学校が共産主義の根強い根拠になり、学生は勿論教授の間にも共産主義を沢山出し政府は非常に困るに相違ない」と答えたという。
■「マルキストと手を握り」
ここで『「反・東大」の思想史』の終盤にある「小田村事件」に触れてみたい。昭和13年、東大法学部の学生、小田村寅二郎が東大での講義の実態を外部の雑誌に論文として書いて明るみに出し、最終的に退学処分となった「事件」だ。
論文で小田村は、日中戦争で多くの日本軍将兵が血を流しているさなか、法学部の国際法講義で他国との条約の拘束を免れるためにはどうすればよいかという試験問題の答案に教授が「自国が当事国以外の第三国に併合せられればそれでよい」と書いた者が10人以上いたことを笑いながら紹介し、学生を爆笑させたことに憤激した。また、小田村の手になる「昭和史に刻むわれらが道統」(日本教文社)によると、別の教授は「我々は(自由主義者の意)今こそマルキストと手を握り、共に人民戦線として右翼に砲弾を打ちこまねばならぬ」と熱烈な口調で述べたという。
福澤の「予言」は、的中していたことになる。
小田村は仲間と日本学生協会を設立するなどして学風改革に取り組んだ。『「反・東大」の思想史』はこれを「反・東大」の文脈の中に置くが、小田村たちの行動は、東大が日本最高学部でなければならないとする自負と一体でもあった。尾原さんは「東大に対する反逆ということでは大きい運動だが、愛校心の塊のように見える」と話す。