“科学”になった経済学から抜け落ちたものとは何だったのか─危険な「美しい理論」と「合理性」
いまや「平和」を語るうえで経済学の視点は欠かせない。特に、合理的に戦争回避を導き出す「抑止論」の考え方は、自由主義経済学から派生したゲーム理論をもとにしており、それは現在でも世界秩序の基本方針として生きている。 【画像】中山智香子著『経済学の堕落を撃つ』 だが、本来は生の解放を目指したはずの自由主義経済学が科学として理論化されていくにつれ、そこから失われたものもあった。そしてそのことは実際、第一次世界大戦後の「平和」が長続きしなかった歴史として表れている。 ※本記事は『経済学の堕落を撃つ』(中山智香子)の抜粋です。 科学や技術が戦争に利用されるようになると、経済学も戦争と平和の問題に深く関わることになった。自由を謳う側が提唱する平和構想は一見説得的ではあったが、実は圧倒的に強者の論理であり、またやがてはAIに結実することになるような、いわゆる「合理的推論」に沿って、ただたんに平和を概念的に定義しただけにすぎないものでもあった。 しかし平和とはほんらい、そんな小むずかしいものではないはずだ。ひとの暮らしがそれぞれ違っており、にぎやかでやかましかったり、あるいは間が抜けていたりというように、平和もまた、ムダや遊びを大いに含む、ユーモラスで優しいものであるはずだ。生き延びるためには自由を手放し相互に監視し合わなければならない、などと厳しい選択を迫られるのは、人間の生存が脅かされているときだけにしていただきたいものだ。 ところが生の解放を標榜したはずの自由主義は科学に服従して生きる感覚から乖離し、まさに人間の生存が脅かされているときに、人間の重みを失って空回りをはじめていた。そしてやがて、致命的に軽くなる。 その延長線上にできたのがゲーム理論である。だがそれは、貨幣的利得に関する、たんなる合理的推論の公理的体系を提示したにすぎなかった。多様な価値についてはこの理論では考えることができない。ゲーム理論の信奉者は、それは美しい体系だという。だがその理論的「美しさ」が、ひとの「よき生」に、いったいどのような貢献ができるというのか。