“科学”になった経済学から抜け落ちたものとは何だったのか─危険な「美しい理論」と「合理性」
精密科学としてのゲーム理論
オーストリア学派の第四世代、ハイエクの同時代人に、オスカー・モルゲンシュテルンがいる。ハイエクがイギリスで計算論争を整理していた1930年代、モルゲンシュテルンはウィーンで、自然科学と社会科学が近接して議論を交わす知的環境に身を置きながら、経済学のさらなる精緻化を考えていた。かれはメンガー以来の主観価値論の価格決定の曖昧さや、時間が利子・利潤を生むという理論の、理論としての雑駁さに不満を抱いていた。 20世紀の初頭以来、論理学、哲学の分野では、アルフレッド・ノース・ホワイトヘッドとバートランド・ラッセルの『プリンキピア・マテマティカ』(1910~1913年)やクルト・ゲーデルの不完全性定理の証明(1931年)が、論理に関わるすべての科学に再考を促し、アルバート・アインシュタインによる相対性理論が、物理学のみならず時空間の認識の根本的な問い直しを求めていた。 ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン、カール・ポパーらはウィーンの地で、自然科学と社会科学、人文知の橋渡しとなる仕事に取り組んだ。またノイラートを含む数名は、論理を「実証」することの意味を問い、統一科学の体系を構想した。後にウィーン学団と呼ばれることになる集団である。モルゲンシュテルンはポパー主宰のセミナーで報告を行うなど、これらの人びとにも間近で接していた。 やがて1940年代、モルゲンシュテルンはナチズムを逃れた亡命先のアメリカで、物理学者・数学者でもあったジョン・フォン・ノイマンと協働(コラボレーション)を行った。フォン・ノイマンは「ゲーム理論のために」(1928年)において、「ホモ・エコノミクス」、つまり利得の最大化だけをめざす抽象的な利己的人間という概念を、従来のものとは異なる出発点から考えていた。 つまり一人ではなく二人のホモ・エコノミクスがそれぞれの利得の最大化を求めたら、結果はどうなるのかという問いを立てたのだ。 二人のホモ・エコノミクスは、対立を意識しながら互いの出方を探り合ったり、ここにもう一名が加わって一方と協力、共謀し、三人目を出し抜いたりする。フォン・ノイマンは、こうした対立、競争と協力の行動の選択肢と結果をモデル化し、そこで最適な選び方を示した。これを「ゲーム」と名付けたのはフォン・ノイマンの才知であった。 アメリカでのモルゲンシュテルンとの協働は数年に及び、オーストリア学派の体系は、アルゴリズム的な公理体系として整備された。協働の成果は共著『ゲーム理論と経済行動』(1944年)に結実し、ゲーム理論が体系化された。 しかし、ここでいうホモ・エコノミクスは一見、他者との関係でさまざまな感情を持って意思決定を行うようだが、それは「ウィン・ウィン」、つまりたんなる「双方とも勝ち」を目指すだけであり、他者への「配慮」は、みずからの利得に適う限りでしか存在しない。 もちろん「ホモ・エコノミクス」は公理としての方法論的な仮定にすぎず、現実の人間がそうだとまで述べているわけではない。とはいえ理論が多くの場合、ひとへの説得役を果たし、結果的に人間の思考や行動の指標となることを考慮すれば、たんなる公理だからで済ますのは、やはり無責任の誹りを免れない。他者への思いが「ウィン・ウィン」だけであるような人間関係は、なんとも貧弱でうすら寒い。(続く) ゲーム理論的な合理性に基づいた「平和」概念は実際に、第一次世界大戦以降から現在に至るまでの世界秩序の基本方針となっている。それが表れているのは、おなじみの抑止論の考え方だ。しかしそこには危うさもある。(第2回へ続く)
Chikako Nakayama