世界遺産「軍艦島」上陸クルーズ:閉山50年を経た炭鉱街が“廃虚絶景”の観光スポットに
近代から石炭の産地として栄え、日本一の人口過密エリアだった長崎市「軍艦島」。無人化から半世紀、廃虚となった島は哀愁漂う独特の景観で多くの人を魅了し続ける。
明治の近代化を支えた炭鉱の島
長崎市中心街の南西18.5キロの洋上に浮かぶ端島(はしま)は、大正時代の戦艦「土佐」に似たシルエットから付いた「軍艦島」の通称で広く知られる。近代的な廃虚群に緑が生い茂る風景は、まるでジブリ映画『天空の城ラピュタ』のように幻想的で、上陸ツアーは大人気だ。 元々は、草木すらない岩礁だった。岩崎弥太郎率いる三菱財閥が1890(明治23)年、海底炭田を採掘するために人工島を開発。島の石炭は官営八幡製鉄所(福岡県)などに供給され、三菱の繁栄と日本の近代化に大きく貢献した。需要の高まりと共に鉱員とその家族らも増えたため、埋め立て工事を繰り返して面積は約3倍に広がった。
狭い孤島のインフラ整備のため、三菱は時代ごとに最先端の土木・建築技術を投入した。鉄筋コンクリート(RC)造の7階建てアパート(1916年完成)や海底水道(57年完成)など、日本初の施設や設備がいくつもある。高度成長期にはRC造のアパート30余りに加え、小中学校や病院、映画館、パチンコホールに社寺までそろう街へと発展。人工物だらけの「緑なき島」と呼ばれたが、1910年代からアパートの屋上には農園が造られていた。高層化と緑化を進めた街は、現代のコンパクトシティーの先駆けといえる。 最盛期の1960年には、現在の国立競技場よりも小さな約6.3ヘクタールの島に5200人超が暮らし、同時期の東京都やニューヨークをはるかに上回る人口過密都市だった。生活水準も高く、国内普及率10%だったテレビをほぼ全世帯が所有していたという。
高度成長期に日本の主力エネルギーは石油や天然ガスに以降したものの、島の石炭は製鉄用だったため需要を保っていた。しかし1964年、火災事故によりメインの坑道が水没してしまう。新たな坑道開発は難しく、三菱は「安全に採取できる石炭は枯渇した」と判断。端島炭鉱は黒字のまま74年1月に閉山し、4月には無人島となった。 島が再び脚光を浴びるのは2000年代に入ってから。01年に三菱グループから長崎市に所有権が移り、08年にユネスコの世界遺産の暫定リスト入りしたのだ。一般客の見学ツアーが09年に始まると、写真映えする景観によって若者を中心に人気を集める。『進撃の巨人 ATTACK ON TITAN』(15年公開)など映画のロケ地にもなって、知名度はどんどん上昇。15年7月、「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の構成資産として世界文化遺産に認定された。