筑紫君磐井は「磐井の乱」を逃れていた? 古代九州の大豪族の謎を追う
古代九州の大豪族、筑紫君磐井(つくしのきみいわい)は527年に起きた「磐井の乱」で討たれたとされるが、この定説に反し、豊前国に逃れた可能性はあるのか。連載23回目(2024年7月10日掲載)で紹介した謎を追って、福岡県豊前地域の京都(みやこ)平野へ向かった。 【動画】巨石を積み上げた石室に圧倒される橘塚古墳と甲塚方墳 巨石を積んだ石室が被葬者の権威を物語る。みやこ町の綾塚古墳(国史跡)は、7世紀前半に築かれた直径約40メートルの円墳だ。みやこ町歴史民俗博物館の井上信隆学芸員(考古学)の案内で中に入った。 横穴式の石室は19メートル続く。古代日本の実力者、蘇我馬子の墓とも言われる、奈良県明日香村の石舞台古墳と同規模という。奥に鎮座する家形石棺が大和政権とのつながりを示す。 綾塚に連なる古墳の系譜は、北へ約10キロ、3世紀末~4世紀初頭に築造された苅田町の石塚山古墳(国史跡)にさかのぼるとされる。その分布は沿岸から内陸へ。綾塚古墳のそばには、同様に巨石を組んだ6世紀末の橘塚古墳(国史跡)も残る。 大和政権の本拠、奈良盆地を中心とする畿内から見て、京都平野は九州の入り口。逆に、九州から畿内を攻める際の拠点にもなり得る。大和政権は九州を掌握する上で、この地域を重要視していたようだ。 □ □ 綾塚古墳から南西へ約1・5キロ、長狭川の対岸に謎めいた古墳がある。全長約58メートルの前方後円墳、扇八幡古墳だ。磐井が生きた6世紀前半に造られた。 後円部の付近に小さな平地が広がる。磐井の墓とされる岩戸山古墳(福岡県八女市)にも「別区」と呼ばれる平地があり、共通性が指摘されている。磐井の影がちらつく。 近くの箕田(みだ)丸山古墳は6世紀中頃に築かれ、金銅製の馬具など豪華な副葬品が出土した。「この二つの古墳は突如出現し、系譜をさかのぼれない」と井上学芸員は語る。 正史とされる日本書紀は、磐井が御井郡(現在の同県久留米市)で斬り殺されたと伝える。一方、地元が編んだ筑後国風土記の逸文(後世の引用文)は、豊前国に逃れたと記す。 九州歴史資料館の酒井芳司学芸員(日本古代史)によると、豊前国の上膳県(かみつみけのあがた)(現在の同県豊前市周辺)に筑紫君と同じ祖先を持つ豪族、膳臣(かしわでのおみ)がいた。磐井は朝鮮半島の新羅と関係が深く、豊前には新羅系渡来人も多く住んでいた。「だからこそ逃げていったと考えられる」と酒井学芸員。 数々の状況証拠から、井上学芸員は仮説を導く。「扇八幡古墳は磐井の墓なのかもしれない」 □ □ 綾塚古墳から約7キロ東へ。みやこ町の甲塚(かぶとづか)方墳は6世紀後半に築造された。東西46メートル、南北36メートル。「(古墳時代の)終末期の方墳では九州最大規模です」と井上学芸員は胸を張る。 その大きさは明日香村の都塚古墳と肩を並べる。蘇我馬子の父、稲目が葬られたとも言われる古墳だ。甲塚方墳の石室にも巨大な石材が使われ、井上学芸員は被葬者像を「九州支配の増援部隊として派遣された人物」と描く。 8世紀になると、全国に「国府」という役所が置かれた。現在の県庁のような組織で、豊前国府跡は甲塚方墳に近い。建物跡が見つかり、墨書土器や木簡などが出土した。京都平野の重要性は揺らいでいない。 筑後国風土記には、なぜ磐井が逃れたとあるのか。「(風土記は)政権の考えに準拠するのが基本だが、地元豪族ともめたら統治できない」と酒井学芸員。磐井には反逆者であってもなお利用価値があったのかもしれない。扇八幡古墳に立ち、想像を膨らませる。 磐井は縁故を頼って豊前国へ落ちのび、政権側の豪族たちは円滑な九州統治を考え、ひそかに磐井を生かした。磐井の死後、大々的に葬ることははばかられ、岩戸山の半分にも満たない扇八幡古墳が築かれた-。 未盗掘の扇八幡古墳には今なお、真偽を確かめる手掛かりが残されているかもしれない。巨石墳の迫力に圧倒されながら古代史のロマンに胸を躍らせた。 (文・野村大輔、イラスト・河辺瑞樹)
メモ
九州歴史資料館は30日午後1時から福岡市・天神のアクロス福岡で、古代史研究フォーラム「筑紫君磐井の乱の実像に迫る」を開く。磐井の乱が古代国家形成に与えた影響を考える。宮崎大の柳沢一男名誉教授による基調講演のほか、同館学芸員による研究報告、トークセッションがある。定員600人、参加無料(申し込み不要)。九州歴史資料館=0942(75)9575。