「五輪の父」クーベルタン男爵はなぜ母国フランスでの評価がいまひとつなのか? 一族の子孫らが語った意外な理由、継承すべき理念とは
▽女性「差別主義」のレッテルを否定 スポーツの大衆化が進み、五輪が隆盛を築いた現代でも母国で冷ややかな視線を浴びる要因の一つには、女性の五輪参加に反対したとされる考え方もあるようだ。近代五輪で初めて女性に門戸が開かれ、テニスとゴルフに女子種目が認められたのは1900年の第2回パリ大会だった。 当時、クーベルタン男爵は女性のスポーツ参加を巡って「見せ物にするべきではない」との立場で消極的だったとされ「女性にふさわしい役割は勝者にオリーブの冠を授けることだ」と述べたとも伝えられる。 現代の国際オリンピック委員会(IOC)は、五輪憲章で反差別を掲げ、さらにジェンダー平等を打ち出す。歴史的な経緯から男爵は「差別主義」とみられることがあるが、IOCは今年5月に専門家や子孫を招いた記者会見を開き、こうしたレッテルを否定するなどイメージ回復に躍起となった。 1世紀前と現代の社会的な価値観は当然ながら異なり、同じ尺度で論じるのは難しい面もある。男爵の子孫でイギリスの大手銀行に長年勤務した経験もある、ナバセルさんは「当時の時代背景として医者や教育者が女性の体のためにスポーツをすることはよくないという考え方があった」と指摘。「クーベルタンは女性がスポーツをすること自体に反対はしていなかったが、激しい競争となるレベルのスポーツや試合には好意的でなかった」と説明した。
▽女性参加の先駆者アリス・ミリアに脚光 3度目となるパリ五輪は120年以上の時を経て、史上初めて男女同数の出場枠が実現した。大会に合わせてクーベルタン男爵の遺産を振り返る特別展や記念コンサートも開催されたが、フランス国内でむしろ脚光を浴びたのは女性のスポーツ参加への道を切り開いた先駆者アリス・ミリアだった。 ミリアは、クーベルタン男爵の考えに異を唱えて陸上などへの女性参加も求めてIOCに直訴し、1920年代にパリで「女性五輪」を独自に開催した人物としても知られる。彼女の伝記漫画が発行され、スポーツ関連施設の場所に名前が冠されるなど功績を見直す動きが広がった。フランス・オリンピック委員会の入り口にはクーベルタン像と並んでミリアの像が設置されている。五輪開会式では歴史を変えたフランス女性10人の1人として紹介された。 一方、地元スポーツ紙レキップのベテラン記者によると、女性参加に対するクーベルタンの保守的な姿勢は時代背景があるにせよ、ジェンダー平等をテーマに掲げた新時代のパリ五輪でその実績にスポットライトを当てにくい困難な状況を生んでいたのだという。