村田諒太が“疑惑の判定負け”で世界ベルト逃し場内騒然!
結果で負けて内容で勝った。 村田は「試合をしていて楽しかった。中学で始めた自分には想像もできなかった」という。 「世界戦の11、12回をチャンピオンズラウンドと言うんですが、やってて楽しかった。12回殴りあえた。ボクシングができた」とも続けた。 それでもすべてを出し切ったのか?と聞かれ、「100%出し切ることのできるアスリートなんかいないと思う」と、らしい持論を展開した。ブロックとプレッシャー。そして右ストレート。この3つはミドルの世界レベルで通用することはわかった。エンダムも、「まだ13試合目で若い。ここから学ぶことはあるだろうが、将来、世界チャンピオンになれる選手だと思う」と、村田の未来を約束した。 だが、軽量級と違い、ミドル級の世界で次のチャンスは、そう簡単には巡ってこない。9月には、統一王者のゴロフキン対サウル“カネロ”アルバレスの頂上決戦が行われるが、村田陣営が、当初交渉していたWBO王者のジョー・ソーンダースが、この勝者に狙いをつけていて、エンダムのプロモーターも、試合後、「ゴロフキン戦も視野に入れて今後を考える」と発言した。GGGを巡る一連のマッチメイクが落ち着くまで、村田に世界再挑戦の機会は、訪れないのかもしれない。 村田も、今後の進退については答えを保留した。 「気持ちの整理が必要です。多くの方々に助けてもらって実現した舞台。試合が決まってから集大成を見せようと努力してきた。負けたからもう一回頑張ると言えるほど簡単な日々を歩いてきたつもりはない」 キーマンの本田会長も、「みんなの力を借りて実現した試合。責任は私にある。今、次どうのこうのとは言えないでしょう」と、言葉を濁した。WBAへの不信感は高く再戦もないだろう。 日付が変わる頃、村田は、母校の南京都(現・京都廣学館高)ボクシング部のOBが中心になって発足した後援会の集まりに律儀に顔を出した。祝勝会の予定が、慰労会に変わったが、村田のルーツを知る暖かい人たちは、村田の健闘を称え、それぞれが心からエールを送った。ワルだった中学時代の村田にボクシングを薦めた当時の担任、北出忠徳先生の顔もあった。世界王者になろうが、疑惑の判定で王座奪取に失敗しようが、仲間たちの村田への思いは変わらない。いや敗れたからこそ傍にいる。我らのアイドルの傍に。 後援会長の近藤太郎氏は、最後のスピーチで元4階級王者、パーネル・ウィテカーの話をした。 1984年のロス五輪の金メダリストのウィテカーは、プロ転向して、4年後の1988年にWBC世界ライト級王者のホセ・ルイス・ラミレス(メキシコ)に初挑戦したが、12回判定で敗れた。だが、その翌年、IBF世界ライト級王者のグレグ・ホーゲン(米国)に世界再挑戦、プロ18戦目で世界のベルトを腰に巻いた。 挫折という名の試練を与えられた五輪金メダリストは、笑いながら、その話を聞いていた。 (文責・本郷陽一/論スポ、スポーツタイムズ通信社)