もうこの人たちには任せておけない…人類学を救うために立ち上がった男の「切実なアンチテーゼ」
安楽椅子を飛び出して
「集合表象」は、未開社会と文明社会のどちらにも区別なく存在しています。デュルケームは、それらを比較研究することで、人間社会の特質を探り出すことができると考えたのです。彼は当時入手可能だったオーストラリアや北米の先住民社会の民族誌文献を活用しながら、宗教や儀礼に関して考察分析を進めました。 彼はまた、『社会分業論』(1893年)の中で、分業の進んだ近代社会において、異なる暮らし方をする人たちが「有機的連帯」によってひとつの社会をつくり上げるさまを描き出しています。デュルケームは社会のあらゆる現象や事柄が互いに働き合う、つまり「機能」することで社会という全体がつくり上げられていると考えたのです。 そうしたデュルケームの考え方は、「未開社会」での長期フィールドワークをつうじて人間社会の制度や慣習を分析しようとするマリノフスキの人類学につながっていきました。マリノフスキはデュルケーム社会学を継承しつつ、制度や慣習の機能を文化や社会との関連において解明することを重視したのです。マリノフスキの研究はその後、「機能主義」人類学と呼ばれるようになりました。 15世紀以降、西洋文化が「外部」の世界と接触することで、少しずつ人類学が生まれる土壌が形成されていきました。17世紀から18世紀に入るとホッブズやルソー、モンテスキューが、人間存在とは何か、人間社会とは何かを深く考察しました。そして19世紀に入るとダーウィンの生物進化論と軌を一にして、モーガンやタイラー、フレイザーが進化論的な人類学を発展させていったのです。 ですが、19世紀の人類学者たちの仕事場はあくまで書斎であり、安楽椅子に座ったままの研究に過ぎませんでした。人の「生」をありのまま捉えるには、書斎を飛び出して現地に飛び込まなければいけない。そう考えて西太平洋でのフィールドワークに乗り出したのがマリノフスキだったのです。そしてそれは、人類学にとっての新たな挑戦を意味していました。マリノフスキは、デュルケームの機能主義を携えて、新時代の人類学を切り開いていったのです。 これで準備は整いました。以降の『はじめての人類学』では、人類学に大きなパラダイムシフトを起こした学者たちに登場してもらい、その足跡を辿っていきましょう。 さらに連載記事〈なぜ人類は「近親相姦」を固く禁じているのか…ひとりの天才学者が考えついた「納得の理由」〉では、人類学の「ここだけ押さえておけばいい」という超重要ポイントを紹介しています。
奥野 克巳