「別居期間が長くても相手が合意しないと離婚できない」という日本の制度は、じつは先進国では少数派だという「意外な事実」
「法の支配」より「人の支配」、「人質司法」の横行、「手続的正義」の軽視… なぜ日本人は「法」を尊重しないのか? 【写真】日本の離婚法は、国際標準の「現代」が実現できていないという「残念な現実」 講談社現代新書の新刊『現代日本人の法意識』では、元エリート判事にして法学の権威が、日本人の法意識にひそむ「闇」を暴きます。 本記事では、〈たとえ法学部で憲法を学んでも、多くの日本人が「普遍的な法的価値や理念」を理解できていない「衝撃的な理由」〉にひきつづき、法と人々の法意識との間に大きなギャップが生じやすい分野である家族法関係の事柄を論じていきます。具体的には、婚姻と離婚をめぐる法意識につき、そのあるべき姿をも見据えながら検討します。 ※本記事は瀬木比呂志『現代日本人の法意識』より抜粋・編集したものです。
離婚できる要件に関するルールと法意識
家族法は、『現代日本人の法意識』第4章・第5章で論じる刑事司法と同様に、あるいはそれ以上に、人々の意識と制度の間の溝が目立ちやすく、その間に激しいきしみの生じやすい分野である。 まず、婚姻(日常用語でいう結婚)と離婚のイメージについて考えると、日本では、婚姻は、意識的に言語化すれば、「好きになった者どうしの間で『籍を入れる』手続」という側面が強く、「相互の人格の、『名付けようのない者』の前での、結び付き、契約」といったキリスト教国における伝統的なとらえ方とは、相当に異なる。 離婚については、キリスト教国では非常に厳しく制限されていたのと異なり、日本では、伝統的に自由であった。「合わせ物は離れ物」、すなわち、合わせて一つにされた物はいつか離れるときもあるという離婚観である。人間の自然に近い離婚観ともいえる。 こうした婚姻、離婚理解の帰結として、日本人の法意識においては、離婚が、純粋に当事者間の問題と考えられやすい。その結果、「離婚においては弱者(子ども、夫婦についていえば多くの場合には妻)を守る必要があり、そのためには国家・社会が夫婦の紛争や離婚について後見的なチェックと介入をすべきである」との感じ方、考え方がきわめて乏しいという問題が生じる。 また、欧米では婚姻を契約として論理的にとらえるために、社会が変わり、考え方が変われば、一定期間の別居で基本的に離婚を認め(当事者の有責性は問わない)、一方、弱者を守るためには離婚給付や社会的ケアを手厚くするという方向に進みやすかった。社会の価値観が変われば、「契約についての考え方」もそれに応じて修正されやすいということである。 しかし、前記のとおり、日本では、婚姻、離婚が、情緒的に、かつ、公的な正義の及ばない「当事者の問題」としてとらえられる。したがって、権力をもつ保守派の「古い婚姻秩序維持」の価値観が、必要な改革を妨げあるいは改革のかたちをゆがめるという結果になりやすい。また、人々の法意識も、それをよしとし、あるいは大きな問題とは考えない場合が多い。 具体的にみてゆこう。 まず、離婚事由を定めた条文(民法七七〇条)が漠然としており、また、判例は、今でも、不貞、暴力、性格・生活上の問題等々の有責事由により婚姻の破綻を招いた当事者の離婚請求は認めないとの法理を、基本的には維持している。有責配偶者の離婚請求を認めないというこの判例法は、戦後当初は、有責な夫の身勝手な離婚請求を認めないという意味があったのだが、年月が経つうちに、離婚したい側が相対的な弱者である場合に、確実に離婚できるか否かの見極めがつけにくい、つまり、法的な予見可能性に乏しいという欠点のほうがむしろ目立つようになった。 また、離婚訴訟の前に調停を経なければならない(調停前置主義。家事事件手続法二五七条)ところ、これについての裁判官の関与は、江戸時代の訴訟における奉行の関与同様、原則として手続の最初と最後だけの形式的なものとなっている。この実務は本当をいえば問題が大きく、近年は、調停の方向性を決めるような場面では裁判官が出席するようになっている。しかし、なお、基本的には調停委員任せという傾向が強い。 調停委員については、本来は、弁護士等の法律家と心理・福祉等の専門家のペアが望ましいであろう。東京等の大都会では、それに近い人的構成が比較的確保しやすい。しかし、それ以外の地域では必ずしもそうではなく、元教師や警察署長、僧侶等を含めたいわゆる地域の名士が任命される例も多い。いずれにしても、適切な人材の確保は必ずしも容易ではない。そして、調停委員の質が悪いと、たとえば、法的な問題なのに「和」の観点から喧嘩両成敗的な「道徳的」説教をされかねないといったことになる。付け加えると、元教師や僧侶は一方的なお説教をしやすく、元警察署長は意外に当事者の話を聴く耳をもっている例があると聞いたことがある。 また、調停ではともかく離婚を成立させることだけに目がゆきがちで、後記のような離婚についての国家のチェックという側面がないがしろにされやすい。民事訴訟における裁判官の和解押し付け傾向と同様の問題だが、調停委員の場合、法的な正義の要請がより置き忘れられがちになりやすいといえる。 そして、調停不成立でようやく訴訟に至ると、被告側は、前記の判例法にのっとり、「原告のほうがより悪い(より有責性が高い)から離婚は認められない」という主張を必ずしてくる。その結果、当事者双方が、「相手のほうがより悪い」との不毛な主張立証合戦をしなければならないことになる。 結局、立場の弱い側(前記のとおり多くは妻)が、「子どもさえ引き取れればあとはほとんど何も求めない」というかたちで、場合によっては、子どもの親権は形式上夫に与え、子どもと暮らすみずからは事実上その世話をする監護権者の立場に甘んじるようなかたちで早期決着が図られる、そんな事態がまま起こりうる。協議離婚、調停離婚の場合だけでなく、裁判上の和解離婚でさえ、そうした傾向が否定しにくい。日本の女性は、結婚する場合、こうしたリスクまで考えておかなければならないのだ。 日本のシステムが「一定期間の別居で基本的に離婚を認め、弱者を守るためには離婚給付や社会的ケアを手厚くする」という国際標準へなかなか進みたがらないのは、そのようなケアの制度に乏しいという事情もあるものの、結局のところ、「古い婚姻秩序維持」へのこだわりという理由が大きいと思われる。また、これは家族法関連の実務・理論一般についていえることだが、裁判官のみならず、場合によっては裁判官以上に、弁護士や学者にも、慣れ親しんだ旧来の考え方に固執しがちな側面はある。 しかし、こうしたシステムは、実際には国民、市民のためになっておらず、かえって弱者の立場をより悪くする結果になっている。そのことをおわかりいただきたいと思う。三ないし五年間程度の別居で原則として離婚を認めて離婚要件についての予測可能性を明確にし、弱者を守るためには離婚給付や社会的ケアを手厚くするという制度改革が適切かと考える。
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