島崎今日子「富岡多惠子の革命」【2】白い教会の結婚式
戦後の日本文学史に決定的な影響を与えた詩人であり、作家であり、評論家であった富岡多惠子。54年を連れ添った夫・菅木志雄をはじめ、さまざまな証言者への取材をもとに、87年の生涯を辿る。 ミニスカートのウェディングドレス姿の富岡多惠子と菅木志雄(菅木志雄氏提供) * * * * * * * ◆「タエコだよ」 日本でマンションという呼び名が聞こえて、約80年。関東大震災後の住宅需要に対応して建てられた東京・同潤会アパートが、戦後、民間に払い下げになり同潤会マンションとなったのがはじまりとされている。だが、高度経済成長期でもその名はまだ一般的ではなく、作家の川口松太郎が1964年、東京オリンピックの年に文京区に建て、女優の加賀まりこや作詞家の安井かずみらが暮らしたプールつきの集合住宅は、「川口アパートメント」と名づけられていた。 1968年の夏の終わり、菅木志雄が富岡多惠子と出会った場所は今ならマンションとしか呼べないのだが、やはり、その名前はついていなかった。世田谷通りに面した白い12階建ての「若林角栄高層住宅」は、現在も名前を替えて、ビンテージマンションとして人気の高い物件だが、当時は一階に洒落た喫茶店「トレッカ」と若者ファッションの火付け役、VANのショップが入って、豊かになるニッポンを先取りするような集合住宅だった。 ベトナム反戦や授業料値上げ反対に端を発した全共闘運動が全国に広がり、ピークに達しようという時期。街にはグループ・サウンズや反戦フォークが聴こえたこのころの菅は、多摩美術大学を卒業したばかり。肉体労働のバイトで食いつなぎながら、当時の若者にもれずアイビールックに身を包み、ジャズが流れる新宿・風月堂で作品のアイデアを考え続けてノートに綴る毎日だった。 そんな折、多摩美で教鞭を執っていた美術評論家の東野芳明に誘われ、「若林角栄高層住宅」に住む画家の合田佐和子を訪ねることになったのだ。11階建ての別棟に、富岡が住んでいた。 合田は、富岡より5つ年下の1940年生まれで、武蔵野美術大学デザイン科在学中から状況劇場や天井桟敷など、近代演劇へのアンチテーゼとして登場したアングラ演劇の美術にかかわっていた。富岡も、唐十郎ら前衛の演劇人とは交流があった。ふたりの女性はこのころ、鼎談するなど、公私にわたって親しかった。 もうよくは覚えていないのだけれど、とその日のことを菅は思い出そうとした。 「東野芳明が合田さんに入れ込んでいて、『一緒に行こう』と強引にひっぱって行かれて、飯食ったりしているうちに、多惠子ちゃんも呼ぼうじゃないかとなって、紹介されたのが最初だと思います。『タエコだよ』って。恥ずかしいから言ったことはないけれど、僕は多摩美では文芸部の部長で、詩をやっていましたから、もちろん、富岡多惠子の名前は知っていましたよね。ただ田村隆一や吉本隆明の本は読んでいましたが、富岡さんというのはまだちゃんと読んでなかったんですよ。もちろん、実物に会ったことなんかなかった。彼女、とにかくチャーミングで、カッコよかったんです。物書きっていいなぁって思いましたよね。しかも感じがよかったんです。だから、『今度、小さいところで展覧会しますから来ませんか』と、はじめての個展に誘ったんだと思うな。今思えば、そのとき、もう好きになってたんでしょうね」