旗手怜央が振り返るわずか4年間の「FW時代」だがそれがセルティックでのゴール&アシストに生きている
【1年生のある日、MFからFWへ】 大学に入学した当初は、2つ年上の米田さんが左サイドハーフのレギュラーとして活躍していた。そのため、自分に出場機会が巡ってくるのは、米田さんが卒業したあとの大学3年になってからという心づもりもあった。そこからの2年間で、しっかりとアピールして、どこかJリーグのチームに加入することができればと、自分のキャリアに思いを巡らせていたものだ。 ところが努力の甲斐もあって、大学1年だった2016年の関東1部リーグ開幕戦にメンバー入りした。そして途中出場する幸運にも恵まれたのだが、当時の登録はMFだったように、ポジションはサイドハーフだった。 大学時代の出来事のため、明確な時期や経緯は覚えていないが、MFとして徐々に先発する機会が増えていたある日、FWへと抜擢された。 これが自分のキャリアを大きく左右する転機になった。 それまでは名古さんがFWとしてプレーしていたが、名古さんは逆に1列下がり、自分がセカンドトップのような役割を任された。同級生の浮田健誠(AC長野パルセイロ)と2トップを組むことになったのだ。 FWという自覚が芽生えたのは、夏に行なわれた総理大臣杯・全日本大学サッカートーナメントだった。1回戦で2得点したのを皮切りに、準決勝まですべての試合でゴールを奪い、4試合で5ゴールを記録した。決勝で明治大学に0-1で敗れ、準優勝に終わったのは自分が得点できなかったからだと思っている。
【オフ・ザ・ボールとワンタッチゴール】 大会前も、いくつかゴールを決めていたが、ミドルレンジからのゴールが多く、ラストパスにワンタッチで合わせるといった、いわゆるFWらしいゴールは少なかった。 静岡学園で技術を磨き、ボールを持ったときのプレーに自信はあったが、FWとしてプレーするようになり、学び、変わったのは、オフ・ザ・ボールの動きだった。監督やコーチからボールがないところでの動きを教わり、それまでセカンドトップを担っていた名古さんの動きも見て、自分に取り入れていった。 何よりFWとしてプレーするようになって感じたのは、MFと比べてオフ・ザ・ボールの時間が長くなることだった。これは、後ろから前にポジションが行くにつれて増していく。 パスを引き出す。相手の背後に走り込む。DFとの駆け引きに勝つ。いずれも自分がボールを持っていない時に求められるFWの動きであり、質だった。 「FWで生き残っていきたいのなら、FWはワンタッチでのゴールが多いから、そこを磨かないといけないよ」 大学時代の監督である堀池巧さんやコーチ陣から言われた言葉は、今でも覚えている。 その後、自ら持ち運んでのゴールだけでなく、ワンタッチでゴールを奪えるようになった自分は、大学1年にしてリーグ戦でチーム最多となる9得点をマークした。そのゴール数は2年生で14得点、3年生で12得点と二桁に届いた。 関東大学リーグでは、筑波大学の中野誠也さん(アスルクラロ沼津)、流通経済大学のジャーメイン良さん(ジュビロ磐田)、そして法政大学の上田綺世(フェイエノールト)といった錚々たるストライカーと、得点ランキングを争ったことも刺激と励みになった。 FWとしてプレーした大学4年間のその経験は、今も生きている。冒頭で記した得点シーンで、とっさに身体が動き、走り込めたのは、まさにそのおかげだからだ。 長くFWでプレーしている選手は、理論的に考え、動いている人もいることだろう。しかし今、自分が最後の最後で自然に身体が動き、ゴール前に顔を出せるのは、FWとしてプレーした4年間があったからだ。とっさに足が出る、とっさに動き出している。その瞬間で、素早く反応できるのは、身体に染みついているところが大きい。