元毎日新聞オリパラ室長・パリ大会開幕をひかえ「その意義」を考える
■あからさまに憲章に違反した運営 また、ロシアのウクライナ侵攻は、全く許されないことですが、ロシアの選手がオリパラに出場する権利はあるのかという問題もあります。ロシアが侵攻したのは北京オリンピックが閉幕した4日後でパラリンピックが開かれる前の2022年2月24日。 平和の祭典といわれるオリパラが何の役に立たず、むしろあざ笑うかのように戦争を始めた国。「政治とスポーツは別」という議論は、ボイコット合戦となったモスクワ、ロサンゼルス大会の例を挙げるまでもなく、現実にはなかなか難しいと感じます。 オリンピック憲章には「オリンピック競技大会は、個人種目または団体種目での選手間の競争であり、国家間の競争ではない」と明記されています。しかし実態は、参加各国の国旗が掲げられ、国家間のメダル競争によって大会を盛り上げ、表彰式では金メダルを取った選手の国の国家が演奏されます。あからさまにオリンピック憲章に違反した運営がなされているわけです。 ■「感動ポルノ」として消費される側面も そして指摘しなければならないのは、オリパラに過剰なストーリーが求められてしまうことです。特に、パラリンピックなど障害者スポーツでいわれるのが「感動ポルノ」という言葉です。身体障害者がスポーツなどに真剣に取り組み奮闘する姿が、健常者に感動をもたらすコンテンツとして消費されていることを指します。 「ポルノ」という言葉は過激ですけれども、これはオリンピックにも当てはまると思います。アスリートがどういう姿勢で、またオリパラをどう位置づけて競技をするかは全く自由なはずですが、これについてはオリパラをことさら強調する一部の報道のあり方にも、問題があると思っています。 ゴルフの全英オープンを前に、「オリンピックを占う大会」とする報道がありましたが、私は強い違和感を覚えます。その競技の最高峰の大会よりオリンピックが上位にあるような見方をするのは自由ですが、私は支持できません。