元毎日新聞オリパラ室長・パリ大会開幕をひかえ「その意義」を考える
スポーツでいえば、例えばサッカーやラグビーのワールドカップ、陸上なら世界陸上やダイヤモンドリーグ、ゴルフもワールドワイドなメジャー大会がありますから、それで足りるという面もありますよね。結局、さまざまなスポーツの一流アスリートが「同時期に」集うオリンピック・パラリンピックを開く必要はあるのかということになります。 私は東京大会が開かれるにあたり、こんなことを考えていました。国籍や肌の色、民族、性別、性的指向、宗教に関係なく、世界からあらゆる人が集い、街角でグラスを合わせ、握手をし、ハグをする。どんな国・地域の代表の選手も、どんな種目の選手も関係なく応援し、勝っても負けても声援を送り、選手同士もファン同士もお互いを尊敬し合う。オリパラはこうした多様性と平和を希求する全世界的なムーブメントの集大成なのではないかと考えたのです。東京大会でこれを示せれば、と燃えていたように思います。 ■「あるべき姿」とかけ離れたスポーツ界の実相 しかし、東京大会がコロナ禍の無観客だったことで、もちろんこうはなりませんでしたし、こうしたあるべき姿といまスポーツ界が抱える実相はあまりにもかけ離れているように思います。 例えば、南アフリカのキャスター・セメンヤ選手は、小さい頃から女性として育ってきたのに、あまりにも速い記録を出したために、女子の中距離陸上競技への出場を拒否されました。マルクス・レーム選手は、義足の反発力によって記録を伸ばしているとして、オリンピックをはじめ健常者への大会への参加を認められていません。 「障害者アスリートが健常者アスリートより優れていることは許されない』というヒエラルキーの意識があると感じる」と発言したこともあります。もともと義足は競技力を増すためでなく、足を失ったために使うもので、仮に強力な反発力があればもう一方の健常な足とのバランスは取れませんので、使うのは無理です。これはほんの一例ですが、多様性も何もあったものではありません。