日本近現代史と格闘した孤高の思想作家「高橋和巳」の豊穣な物語世界 小野沢稔彦
〈5〉そして敗戦直後、高橋は思想実験として、教団の「外」の革命指導者による、教団を主体とした「革命」を設定する。子どもの頃、母の人肉をさえ喰(く)って成長した革命指導者は、教団が戦争を受け入れた負の歴史を検証することもせずに、展望なき政治革命を起こす。政治革命は一瞬の成功を収めるが、制度の側の暴力を前に、たんなる革命ゴッコに終わる。この「外」からの思想注入による政治革命においては、たとえば女と性の問題、教団の運動と構成員の個の内面は問われることがなく、表層的な体制変革が目指されたにすぎない。そして無残な敗北と教団の終わり。民衆は無明の闇のなかを羅針盤もないままどう歩めばいいのか。再度、高橋のあとがきを引用したい。 《私の描かんとしたものは》《私の悲哀と志を託した宗教団体の理念とその精神史との葛藤だった》《私が生れ育ったこの日本の現代精神と私の夢とを》《文学の領域において格闘させることが必要だった》。私たちは、高橋の苦闘を追体験することから現在を問う試行を始めるべきではないだろうか。 ◇革命の名の下に行われた殺人の記憶 高橋和巳の小説は、その壮大なスペクタクル性によって、映画化しやすいように思われる。しかし現実には、黒木和雄監督『日本の悪霊』一作だけにすぎない。小説『日本の悪霊』とその映画化作品を見透して、この特異なミステリーを覗(のぞ)き込んでみたい。 ドストエフスキーを念頭におき、日本の戦後史のなかに「罪と罰」を表象するこの物語は、国家という迷宮と、法の罠(わな)に捉われてしまった人間の苦く悲惨な物語である。 敗戦後の混乱期に、強い権威を持つ前衛党が主導する軍事行動、いわば矮小化(わいしょうか)された革命運動に参加した男が、山林地主を殺害し、その後8年(当時の時効期限)逃亡し続け、いまなぜか卑小な詐欺事件を起こして自ら出頭する。特攻で死にそこなった刑事がその事件に興味を抱く。刑事は、事件の裏に男の過去が影を落としていることを感知するのだ。追う者と追われる者との間に奇妙な親近感が生じる。8年前の事件は無かったことにされ時効が成立している。しかし男は、自分が信じて行った行動が無化されることにたえられず、事件が正当に裁かれ、自分が真っ当に処罰されることを求める。事件の裏には前衛党の裏切りもありそうだ。男は自分の処罰を求めることで、かつての行動の意味と自らのアイデンティティを再構築しようとしている。