日本近現代史と格闘した孤高の思想作家「高橋和巳」の豊穣な物語世界 小野沢稔彦
個人の内実を超えて、時代のなかで生ずる人間の罪と罰。歴史のなかで行われた「犯罪」を無かったことにして、国家も前衛党も延命する。卑小な詐欺罪の裁判で、国家は男に「無罪」を宣言する。すると男は、その場で自死を敢行する。刑事は直感的に覚(さと)るのだ――《死が生にとって最も恐しいことなのではなく、死から拒まれてあることが》《恐怖なのであること》を。男は、くつがえることのない法という国家制度に対し、「落とし前に時効はねェ」(映画化作品のセリフ)ことを全存在を賭けて実行するのだ。 この傑作の映画化に際し、シナリオ作家・福田善之は小説をいったん解体し、当時流行していた仁侠映画のパロディとして、まず男と刑事を佐藤慶の「一人二役」で再設定し、国家とヤクザ共同のヤラセ「ヤクザ戦争」というギャグ映画として再構成する。この演劇的世界の創出によって、地主殺害という革命行動が、実はパロディでしかなかったことを笑劇(ファルス)として浮上させる。しかし、シナリオが仕掛けた方法は、現場の映画制作者たちのシナリオへのとまどいと、同時に高橋小説の神話化とに呪縛され、ただシナリオの表面を追いかけるだけに終わってしまった。 優れた文学を映画化するには、まず深くその世界を読み込むことが求められる。そして物語を解体し、小説とは別の「映像」世界へと変換する仕掛けを準備しなければならない。福田の舞台空間的で先鋭なシナリオを、古い映画的なリアリズムによって再現しようとした結果、映画は中途半端なものとなった。 ◇「家政婦」の告発によって破滅する法学者 《一片の新聞記事から、私の動揺がはじまったことは残念ながら事実である。もし何事もあかるみに出ず、営々として構築した名誉や社会的地位が土崩することもなければ、現在もなお私は法曹界における主要メンバーの一員であり、また大学教授としての精神的労作いがいの負担は私の魂には加わらなかったであろう。傷ついた私の名誉は、しかし私が気に病むほどには人は気にしてはいまい。また、私自身、事態を悲しんでいるわけではない。愛のことどもについて、ほとんど考えてみもしなかった学究生活においても、考えてもなんの結論もえられぬことを知った今も、私は悲哀の感情とは無縁であった》