病室の孫正義は孤独だった。「夜、ひとり泣きました」ソフトバンク草創期の闘病生活
● 子を思う親の願いが 治療法を見つけ出した 1983年の暮れになっても、孫の病状はいっこうによくなる気配を見せず、一進一退を繰り返していた。 病室の孫は寒々とした窓におのれの運命を凝視した。 このままじっと死を待つか。それとも新しい方法に賭けるか。 新しい春を迎えることができるのか。たとえ、春を迎えたとしても、こんな病身で、次から次に襲いかかってくる困難にどこまで立ち向かえるのか。暗澹たる思いであった。 孫は肝臓の専門医が発表した論文を読み漁って、自分の病気を治してくれそうな医者や治療法を必死で探していた。 だが、孫を救ったのは思いがけない人物であった。 子を思う親の願いが天に通じたのか。 孫の父、三憲は、肝炎の画期的な治療法を紹介する新聞記事を眼にした。 虎の門病院の熊田博光という医師が肝臓学会で新しい治療方法を発表して、注目を浴びている。これまでにないまったく新しい治療方法。「ステロイド離脱療法」という。三憲がその有効性をどれだけ理解していたかはわからない。だが、すぐさま息子に電話をかけた。 「熊田先生に会いにいったらどうだ」 孫は父の気持ちが涙の出るほど嬉しかった。 「可能性に賭けてみるべきじゃないのか」 三憲の言葉には説得力があった。 孫は父の言葉に従うことにした。
● 不治の病に向き合う 情熱に満ちた若き医師 年が明けた1984年1月、孫は虎の門病院の熊田医師の診察を受けた。 「先生の治療法を新聞記事で読みました。私の病気は治るでしょうか?」 その声に、必死な響きがあった。孫は狭い診察室の椅子に、からだを丸くして座っていた。 37歳のこの医師は、まだ無名だったが自信と情熱にあふれていた。 「やってみましょう。とにかく、やってみなければわかりませんよ」 熊田は静かな口調で言った。 当時、慢性肝炎の治療法はまだ確立していなかった。効果的な治療法がなく、慢性肝炎になると肝硬変になり、やがて肝臓がんになる不治の病だった。 熊田は孫のカルテに眼を落とした。 健康体であれば、e抗原の数値はゼロ。いわばe抗原は暴れん坊のウイルス、横着なウイルス。どんどん肝臓を食べ、破壊してしまう。 数値は、低、中、高の3段階に分かれる。孫の場合は、200を超えている。 孫はこのとき明らかに重度の慢性肝炎だった。軽度、中度、重度、肝硬変、肝臓がんと進行していく。孫の場合はすでに肝硬変になる寸前だった。5年以内には肝硬変になり、腹に水がたまる状態だった。 熊田は、医師としてできる限りの手段を取ってみようと決心した。 熊田は当時の孫が新進の起業家であることを知らなかった。不治の病に苦しんでいるひとりの若者であった。だが、病気に負けまいという決意が眉宇にあった。その必死の思いが熊田の心を打ったのである。