親パレスチナ団体はなぜ絵画を切り裂いたのか。環境問題やパレスチナ侵攻とアートについて「セトラー・コロニアリズム(入植植民地主義)」の視点から考える(文:Maya Erin Masuda)
カリム・アイノズ
ベルリンDAADギャラリーにて開催されたカリム・アイノズ(Karim Aïnouz)の個展「Blast! 」(*21)は、ブラジル系アルジェリア人である映像作家の個人史を、太陽という概念を媒介に取り上げる展覧会である。 なかでも奥の部屋に展開され、展示の中核となる役割を担う《Brighter than the sun》は、かつてフランスの植民地支配下にあったアルジェリアにおける原爆実験(*22)を取り上げた映像作品だ。 日記を書き始めたのは14歳のときだった。みんな私が物事を忘れていると言った。 私の記憶力は本当に私を裏切っていた。それが怖くなり、書くことに夢中になった。 大人になった私はカメラを買い、撮影に夢中になった。 私は自分の足跡を残すこの方法を完璧なものにした。レコーダーも買った。視力を失い始めると、書いたり撮ったりすることが意味をなさなくなった。だから私は話し始めた。自分に。そして他人に。私は忘却することがとても怖い。 未来を想像できるようになりたいんだ、博士。私は生存者です。モロー博士。生き残ったんだ。"レガネス "にされたこと... それ以来、私の視界から消えることはない"燃える光 "を...。 視力が悪くなるにつれて、嗅覚が強くなった。そして奇妙なことに、私を恐怖に陥れるもうひとつのものが、目に見えないものであることを知っているでしょう。私たちが呼吸する空気。忘れることと、そして呼吸すること。じつはこれが私の最大の恐怖なんだ。ここパリでさえ、呼吸が怖い。時折舞い降りるこの奇妙な埃は、それを思い出させるものだと思いませんか、モロー博士? 日が経つごとに、すべてが少しずつ暗くなっていく。闇は私を煩わせないが、光は私を悩ませる。 太陽より明るいものを見たことがありますか?(*23) 生存者の証言に基づき制作されたフィクションである本作において、原爆実験により徐々に視覚が失われてゆくなかで生きる主人公は、次第に嗅覚に、持ち歩くレコーダーに、そして呼吸にその存在の記憶を見出すようになる。そして主人公がアルジェリアのレガネスを離れ、遠く離れたパリで暮らし始めるなか、その物理的な距離を超えて主人公を過去の記憶へと引き戻すのも「息をする」という行為なのである。ここでは、原爆実験の記憶が、視覚とその喪失という象徴的な出来事として描かれるのと対照的に、主人公のそれ以降の記憶、そしてそれ以前の記憶の懐古は、嗅覚や呼吸など複数の肉体感覚に結びついた、苦しみと回復のあいだの多面的なナラティブとして表象される。 サラ・アーメッドが、「息のできる生活のための闘争は、クィアが呼吸するスペースを得るための闘争である。呼吸するスペースを持つこと、あるいは自由に呼吸できることは、[......]願望である。呼吸には想像力が伴う。呼吸には可能性が伴う。クィア政治が自由についてであるならば、それは単に呼吸する自由を意味するのかもしれない」(*24)と述べる通り、息をすることの自由は、物質的・環境的要因だけでなく、社会的・心的安全性が確保されることによって初めて担保されるものでもある。主人公の土地との関係性の断絶は、呼吸という行為を通し、嗅覚・聴覚などの複数の感覚から構築される記憶として描かれることで、逆説的に説得力を持って故郷の喪失/不在について語ることになるのである。 グエン・チン・ティ またベルリン・ギャラリー(Berlinische Galerie)のタイムベースト・メディアを扱う作家を紹介するプログラム「IBB-Videoraum」にて3月より上映されている《How to Improve the World》(*25)は、ハノイで育ち映像作家となったグエン・チン・ティ(Nguyễn Trinh Thi)による、アメリカ人の父を持つ作家の娘と、またベトナムに暮らす音楽家クソール・セップ(Ksor Sep)に対するインタビューから構成されたエッセイフィルムだ。 「あなたは音とイメージどちらが信じられると思う?」。グエン・チン・ティのベトナム訛りの英語の投げかけに対し、英語と英語訛りのベトナム語を話す娘は「イメージだよ、ママ」とアメリカ英語で答える。また続く場面において、ベトナムの中部高原地方に居住する少数民族ジャライの音楽家のクソール・セップは、キン(ベトナムの主要民族)に侵略される以前、かつて自分の土地があった山々や、そこにいた人々の生活の音の記憶について、ジャライ語で語るのである。映像が先行するのでなく、動物や雨、様々な人間以外の存在の音が映像に先立つかたちで構成された本作は、西洋的視覚中心主義とは別の、音と物語を中心とする記憶/歴史構築のあり方を丁寧に拾い上げる。 ベトナムは、1960年代にアメリカを初めとする資本主義陣営と、ソ連・中国などが支援していた社会主義陣営の代理戦争の現場として、多数の民間人が亡くなり、また過酷な戦場として無数の共同体・記憶が失われることとなった歴史的複雑性を持つ(*26)。ベトナムにおいて消えゆく音や伝承を中心とした世界のあり方と、そして矛盾するように育つ視覚中心的な世界認識の存在は、トランス・ナショナルなアイデンティティを持つ娘と映像作家本人との対話により、アメリカとベトナムとのあいだの、安易な植民 - 非植民(支配 - 非支配)という構図を退けるかたちで浮かび上がる。作家が「グローバリゼーションが進み、西洋化を遂げた文化が視覚メディアに支配されるようになったいま、視覚的イメージの権力に抵抗し、未知なるもの、目に見えないもの、アクセスできないもの、聴覚的風景により注意を払うことで、[...]よりバランスの取れた繊細なアプローチを模索する必要性と責任を映画監督として感じている。」(*27)と後に語っているように、この映像作品もまた、伝承や音を通じて形作られてきた共同体の「記憶」と、帝国主義が戦略的に用いる、視覚中心主義的「記録」のあいだの断絶を浮き彫りにするのである。