率直に問う 京都は歴史ある「古都」か? もはや単なる「テーマパーク」か? 悪マナー横行の“観光公害”で考える
京都、古都とテーマパークのはざま
とりわけ、コロナ禍後の旅行では「高単価観光体験」が重視される。JTB総合研究所の河野まゆ子氏の「ニューノーマル時代に見直される「五感で味わう旅」のリアル」(『文化資源学』第19号)には、こう記されている。 「コロナ以前から、あらゆる情報がオンラインで容易に、且つ無料で入手できる環境下で、旅行者は“自分だけのパーソナルな体験”に高い価値を感じるようになっている。自分の蓄積経験に照らしたフィルターにかけて地域資源を見たときの“自分だけの発見”や、他の多くの人がそうそう容易には経験できないことをするといった価値を旅行に対しても希求することから、「1泊100万円の城泊」や「1日1組限定の無人島貸し切り」などのプログラムが近年生み出されている」 つまり、魅力的な観光地になろうとすれば、必然的にテーマパークになる。テーマパークからの脱却を目指す 「自分だけのパーソナルな体験」 も、その多くはテーマパーク化という“井のなかの出来事”なのである。つまり、テーマパーク化することで、観光地は旅行者にユニークな体験を提供すると同時に、その体験自体が管理された空間のなかで提供される「テーマ化された経験」となるのだ。 京都は今、「古都」と「テーマパーク」のはざまにある。一方では、歴史と文化の中心地として、京都は「歴史を学ぶ場所」であるべきだと主張する人々がいる。一方、多くの観光客にとっては、日本文化を楽しむ「物見遊山」の場である。このふたつのバランスをどうとるかが、京都の将来を左右する重要な要素である。 そして、「テーマパーク化にとらわれた旅行は楽しいかどうか」という問いについても、もっと考える必要がある。本当に楽しい旅とは、その土地の深い歴史や文化に触れ、現地の人々と交流し、自分なりの発見や学びを得るような旅だろう。テーマパークで楽しむというのは、誰かにお膳立てされたものに乗っているにすぎない。 現代の京都が古都なのかテーマパークなのかと問われれば、後者だろう。しかし、その鎖から解き放たれる意志があれば、旅行者は古都としての京都を体験できるはずだ。
業平橋渉(フリーライター)