魏・呉・蜀の諸葛氏を絶滅させた「司馬一族」の強さの秘密
■ なぜ、司馬懿(仲達)の一族は諸葛氏を圧倒できたのか? 蜀は264年に滅亡、呉は266年に滅亡して三国志の時代は幕を閉じます。この終焉には、司馬氏の圧倒的な軍事指揮能力とともに、すべての国の諸葛氏が司馬一族によって打倒されたことも関連します。 なぜ、司馬一族はこれほど強かったのでしょうか。 なぜ諸葛の人々は、司馬一族に勝つことができなかったのでしょうか。 司馬懿(しばい/仲達[ちゅうたつ])は猜疑心の塊のような人物だったといわれています。 『内は忌にして外は寛、猜疑して権変多し』(書籍『司馬仲達』より) 外見は寛大そうに見えても、猜疑心が強く人を信用しない。「権変」つまり権謀術数を多用した人物だということです。彼は首だけを180度回して真後ろが見える「狼顧の相」だったとも記されています。 曹操が旗揚げして間もないころから右腕だった荀彧という天才参謀が亡くなった212年以降から、司馬懿は段階的に魏で活躍を始めました。やがて三国を統一していくほどの手腕を見せた司馬氏の戦略や軍事指揮には、一体どのような特徴があったのでしょうか。 ■ 徹底して、相手の弱みを元に攻撃と防御を設計する 237年に、魏の2代目皇帝の曹叡から、北方の公孫淵の討伐の命令を司馬懿は受けます。公孫淵は、首都から離れた遼水という河の対岸に大軍を布陣して、魏軍を待ち構えました。 ところが司馬懿は、敵軍の裏をかきます。 『敵は堅陣をしいて、わが軍の疲れを待っている。しゃむに攻めては、みすみす敵の術中にはまることになる。昔の人も“どんな堅陣をしいて専守防衛につとめても、そのツボを攻めたら、敵は出てきて戦わざるを得なくなる”と語っているではないか』 「いま、敵の大軍は遼水の防御陣地に集結している。本拠地の襄平にはいくらの兵力も残っていまい。本拠地を叩けば、敵はあわてて後を追って戦いを挑んでくる、そのときが、殲滅するチャンスだ」(共に書籍『司馬仲達』より) 司馬懿はこの言葉通り、敵の大軍が布陣する場所を通過して、相手の首都である襄平へ進軍してしまいます。目論見が外れた防衛側は、家族のいる首都に魏軍が進むのをみて慌てます。強固な陣地を放棄して魏軍をおいかけ、待ち構えていた司馬懿の魏軍は、公孫淵軍に3戦3勝と圧倒します。 司馬懿は、攻める時に、相手の強みではなく「相手の弱み」を元に決断をしていることがわかります。相手の強みに正面から立ち向かえば、魏軍も相当な損害を出す上に、相手が求めた有利さを相手に与えてしまうことになるからでしょう。