ダ・ヴィンチ・コードで物議を醸した「最後の晩餐」の謎…女性のような弟子は誰なのか?
こうしたヨハネとイエスとの特別の関係は、その後人々の想像力を大いに掻き立てたようで、中世になるとさらにさまざまな脚色が施されていくことになる。 とりわけ、ヨハネの結婚にイエスが割り込んできたという話は、どこかゴシップじみてもいるから、下世話なことかもしれないが、いったい何があったのだろうと勘繰りたくなるのが人情というものである。いつの時代でも、他人の色恋沙汰は衆人の大きな関心事なのだ。 そんな脚色のひとつにたとえば次のようなものがある。ヨハネの結婚相手とは、誰あろうマグダラのマリアである。2人はめでたく結ばれることになるのだが、まさにその婚礼の席上で、ヨハネがイエスのもとへと去ってしまったため、初夜を迎えることのないまま良人を奪われたことを恨みに思ったマグダラのマリアは、あらゆる快楽に身を持ち崩すようになった、というのである。 こうして、ヨハネが信仰に入った経緯と、反対にマグダラのマリアが堕落するに至った原因が説かれるわけだが、ここにもまた、女性を排除することで成立するホモソーシャルな関係性を読み取ることができる。 ● カップルにしてライヴァルである ヨハネとマリアの奇妙な関係 そのマグダラのマリアは、共観福音書によればイエスによって回心したとされ、またとりわけ彼女の名を冠した『マリアによる福音書』などの外典のなかでは、イエスの良き「伴侶」とまで呼ばれている。
とすると、使徒ヨハネとマグダラのマリアとは、人々の想像力のなかで、イエスによって引き裂かれたカップルでもあれば、イエスの愛をめぐるライヴァルでもあったことになるだろう。言ってみれば2人は似た者同士でもあったわけだ。 このこともまた、美術のなかにたしかに反映されている。ダ・ヴィンチの《最後の晩餐》をめぐるダン・ブラウンのあらぬ憶測は別にしても、イエスの2人の弟子は、しばしばどちらとも見紛うような姿で描かれてきたのである。 2人は、聖母マリアとともに十字架のイエスの最期を看取っているのだが、たとえばラファエッロの名高い《磔刑像》(1-16、1502-03年、ロンドン、ナショナル・ギャラリー)において、両者の姿は酷似している。 もちろん、ひざまずいて磔のイエスを見上げているのがマグダラのマリアで、その背後にいて両手を組んでいるのがヨハネであることはまちがいないのだが。これは、ヨハネが女性化して描かれることもあったという趨勢に準じるものでもある。