ダ・ヴィンチ・コードで物議を醸した「最後の晩餐」の謎…女性のような弟子は誰なのか?
少々長くなるが、わたしたちの議論にとってひじょうに示唆的な部分なので、そのさわりを引用しておきたい。 今、このときに到るまで、この私をあなた御自身に対して、また、女との交わりから潔くお守り下さいました方よ、若い頃、結婚しようと思った私に顕われて、「ヨハネよ、私にはおまえが必要なのだ!」と云われ、私の思いを変えるため、私に身体の病弱をさえ備えられた方よ、私が結婚したいと願った3度目には、急いで私を推し止め、そのあと、昼間の3時頃でしたか、私に海の上でこう云われた方よ、「ヨハネよ、おまえがもし私のものでないのなら、私はおまえが結婚するがままにさせたことであろう」と。悲しませ、そこからあなたを求めさせるため、私を2年もの間盲目にされた方よ、3年目に私の心の視力を開き、同時に、明るく澄んだ両の瞳をお恵み下さいました方よ、私が再び見えるようになったとき、女をその気で眺めることさえ嫌わしいこととされ、はかない気の迷いから私を解き放ち、持続する生命へとお導き下さいました方よ(大貫隆訳)。
● ヨハネの告白が示唆する キリストとの相思相愛関係 このような調子で、主キリストへの祈りはさらに長々とつづき、最後に次のように締めくくられる。 「あなたがあなたおひとりを愛しつつ潔く生きた者たちにお約束なさったことに与るようにさせて下さい」と。3度までも結婚を断念し、あなただけを愛してきたのだから、死してもなお「私と共におられて下さい」というのである。 死を目前にして、自分が信仰に入ったいきさつをしみじみと振り返るヨハネの脳裏に焼き付いているのは、まさしくキリストとの愛である。 もちろん、この祈りの基調をなしているのが、当初からキリスト教の根底にあるミソジニー(女性にたいする嫌悪や憎悪)と独身主義、処女と童貞の理想化であることに変わりはないのだが、それをほかでもなくヨハネその人の口を借りて語らせているのが、このテクストのポイントである。 イエスこそがヨハネの結婚を思いとどまらせたのであり、そのイエスは、愛弟子のことを「私のもの」とまで言い切るのである。 それゆえこの外典において、『ヨハネによる福音書』の決まり文句「イエスの愛しておられた弟子」が、戯画的に誇張されているのではないかとさえ疑われるほどである。