フィリピン移住4ヶ月で貯金が消えた…けど「不安がなくなった」 阪神・淡路大震災の経験を経て辿り着いた“幸せの場所”
スコールが止んだばかりの朝、湿気でムンムンするフィリピンのマリゴンドン港には、野良犬や野良ヤギがあちこちで寝ている。両脇に浮きがついたバンカーボートに乗り込み、目的地まで約30分。環礁内の波は穏やかだ。見えてきたのは「南の島」を絵に描いたような、椰子の木と白いビーチの島、カオハガン島。 この島に移住したエラミル嘉恵さんに話を聞いた。 【写真】朝6時のマリゴンドン港は静か
阪神大震災がもたらした転機
エラミル嘉恵さんは1984年生まれ、兵庫県神戸市長田区で育った。両親と兄の4人家族。長屋が並ぶ路地裏で自転車を乗り回し、野良猫を追いかけた幼少期。「じゃりン子チエみたいだった」と昔を懐かしむように目を細めた。 その一方で「小学校低学年の頃は体が弱い子どもでした。神経質で胃が弱く、よく保健室に行きました」。現在の健康的な容姿からは想像のつかない話でインタビューは始まった。 1995年1月17日、阪神・淡路大震災が発生。嘉恵さんが小学校4年生の時だった。長田区といえば、主に火災の影響で家屋の半数以上が倒壊した地区だ。嘉恵さんの自宅は火災から免れたが全壊だったため、避難所生活が始まった。 「親戚の家に身を寄せたりもしましたが、そんなに長くもいれないし。その後、焼け野原に残っていた建物の一室を借りて家族と住み始めました。毎日家族のために目の前のことを頑張っていましたね。水汲みや救援物資をもらいに行ったり、食事を作ったりもしました。でも辛いというより、必要とされているって感じたんです」 もともと体が弱かった上に、被災して普段の生活を失った嘉恵さんだったが、家族と協力しながら自分の役割を意識して過ごしてきた。便利なものを失い、あるもので工夫しながら生活することも楽しかったという。 通っていた小学校が避難所だったため5年生になっても学校が閉鎖のまま、6年生は午前中だけ再開するという状況だった。しかし嘉恵さんは前向きだった。 「毎日自由でしたよ。私にとって『学校で何かをしなきゃいけない』ということからの解放でした。自分らしく過ごせました」 嘉恵さんは休校を機に体調が改善し、本来の自分に戻った感覚だと語った。