中日の与田剛監督が語っていた退任真相
巨人OBでヤクルト、西武で監督を務め、現役時代の与田監督を指導したこともある“球界大御所“の広岡達朗氏は「与田は投手陣を整備してよくやった。フロントが外国人打者の補強や即戦力のドラフトに失敗した。この戦力で勝てというほうが無理だ」と低迷の責任を与田監督だけに押し付けるフロントを批判した。 もしヤクルトのサンタナ、オスナの2人が中日に来ていればAクラス入りも可能ではなかったか。 だが、与田監督はフロントに対する不満を一度として口に出したことはない。 「チームを立て直すタイミングで監督として声をかけてもらった。FA補強ができないことや外国人に何億円もの予算をかけられないという球団の事情もわかっていたし、誰かが任される使命。“ありがたくやらせてもらいます“と監督を引き受け指揮を執った。それが運命。選手がいる、いないの愚痴や不満を口にするような暇があれば、今いる69人の支配下選手を少しでも、いい形にすること、そして勝つことだけを考えてきた。指導者をどう動かすかということに加え、選手をどうやる気にさせるかが大事だった。ただやる気になってもうまくいかないこともある。僕のやり方に不満を持つ選手やコーチもいたと思う」 一方で投手陣を立て直した。チーム防御率はリーグトップ。スランプに陥っていた大野を沢村賞を獲得するまでに復活させ、2年目は、福、祖父江、マルティネスの勝利方程式を確立した。12日のヤクルト戦で11勝目をあげた柳は防御率、奪三振もトップで、投手3冠を狙える位置にあり、6年目の小笠原も負けが先行しているが、1本立ちした。 「僕の力というより、1、2軍スタッフの能力と努力のおかげ。感謝している」と共に戦ってきたコーチ陣の指導能力を称えた。 ”三ツ間の代打事件”に象徴されるように監督としての采配に拙さも露呈。ネット上では痛烈な批判も受けた。楽天でコーチ経験はあったが与田監督も「監督は初めてで、全部がうまくいくとは思っていなかったが、やりながらでないとわからないことがたくさんあった。本当に監督は難しい仕事」と素直に反省を口にした。球団としては、監督経験のない与田監督に元西武、元ロッテ監督の伊東ヘッドを付けることでフォローしようと考え、今季はサインの一部を伊東ヘッドに任せていたが、その連携はうまく機能しなかった。 谷繁監督が、3年連続Bクラスに終わり、次の森監督も2年連続で5位に低迷する中でバトンを受けた。いわゆる“落合一派“がチーム内から一掃され、球団として転換期を迎えた中での監督就任だった。 土台作りがテーマであり、ドラフトでは3年続けて1位で高校生を指名した。 阪神では後半失速しているが、佐藤が23本塁打、中野がショートのレギュラーを奪い、伊藤将がローテーションの一角を任されるなど即戦力ルーキーが戦力になった。横浜DeNAの牧も新人王争いをするほどの結果を残しているのを見ると、ドラフト戦略の失敗も響いたようにも思えるが、与田監督は、あえて種をまき、水をやることに心血を注いだ。