旧海軍パイロットが残したアルバムに、空から見た100年前の「帝都」 関東大震災直後、珍しい歴史的史料が示す軍艦・若宮の記録
「空カラ見タ横浜ハ全部焼ケ失セタ様ダ」 「廃都ヲ後ニ品川ヨリ清水エト」 日本人同士の虐殺を描いた映画「福田村事件」の裏で、地元・香川は葛藤を抱えた 今も残る部落差別…それでも「教訓を継承したい」
一冊の古いアルバムに収められた写真一枚一枚に、手書きのこうしたコメントが添えられている。100年前の出来事を追体験するような感覚に陥りながらページをめくっていくと、歳月を超えて惨状が伝わってきた。 10万人超の犠牲を出した1923年9月1日の関東大震災から、100年が過ぎた。アルバムは当時、救援活動に当たった海軍将校、峰松巌さんのご遺族が見せてくれたものだ。 大震災の犠牲者の9割は火災で亡くなった。東京や横浜、神奈川県横須賀市の様子を空から捉えた写真からは木造家屋が密集した町が焼け野原になっている様子が写っている。調べていくうちに、アルバムがある軍艦の記録で、貴重な歴史的史料であることが分かってきた。(共同通信=八田尚彦) ※末尾にも写真あります。 ▽第2次世界大戦時の航空部隊の指揮官 アルバムは東京駅丸の内口の航空写真から始まる。「飛行機カラ。若宮」と題され「震災後ノ東京駅前」という説明が添えられている。ある軍艦とは、冒頭の題字にある「若宮」のことだ。旧海軍航空隊の歴史を語る際に最初に名前が挙がるような知る人ぞ知る軍艦で、海上で発着する水上機を搭載し、その後に登場する空母の先駆けのような存在だった。艦上での発着実験もしていたという。前身の「若宮丸」は1914年に始まった第1次世界大戦に参加し、ドイツの租借地だった中国・青島で水上機が上空から偵察や爆弾投下を行っている。
1898年生まれの峰松さんが大震災当時、その若宮に乗艦していたという記録が官報に残っている。1923年1月に乗組員になり、大震災後に霞ケ浦海軍航空隊の航空術学生へ異動。その約1年後に「飛行機操縦者タルヘキ学生」として卒業、とあった。峰松さんが大震災後にパイロットになったことがうかがえる。 航空年鑑や海軍航空史、「戦史叢書」などを当たると、峰松さんはその後、霞ケ浦海軍航空隊教官、横須賀海軍航空隊分隊長、海軍兵学校教官などを歴任。第2次世界大戦では大佐として航空部隊の指揮官を務めている。操縦士としての飛行時間が「1500時間」という記述もあった。 ▽軍艦に乗って避難する人々の写真も アルバムに残る写真の約半数は、航空写真だ。大震災の惨状を伝える航空写真としては、宮内庁や防衛省防衛研究所(東京都新宿区)に保存されている陸軍や横須賀海軍航空隊撮影のものがよく知られているが、アルバムの写真はそれらにないものばかり。非常に珍しい史料と言える。