旧海軍パイロットが残したアルバムに、空から見た100年前の「帝都」 関東大震災直後、珍しい歴史的史料が示す軍艦・若宮の記録
アルバムにはほかに、収集したとみられる写真も複数枚貼られていた。大規模火災で約3万8千人が命を落とし、最も悲惨な現場と言われた現在の東京都墨田区の旧陸軍被服廠跡地の惨状の写真だが、これは絵はがきとして当時、市中に出回ったものと思われる。 「艦首ヲ貫カレタ!」というコメントが付けられた写真もあった。海軍の公文書「公文備考」には1923年10月10日、若宮が三重・鳥羽沖で潜水艦と衝突事故を起こした報告書がある。この報告書に写真は載っていなかったが、アルバムには残されていた。 ▽軍事機密との関連も? アルバムには軍内部の人間しか撮れない写真が多くあり、若宮の乗組員が撮影したものや海軍内部で保管されていた写真などを収集して作成した可能性が高い。大震災当時、軍機保護法や要塞地帯法によって、軍事機密の公開は厳しく制限されていた。峰松さんが長らく個人的に保管していた背景にはこうした理由があるのだろう。
アルバムの終盤には1923年10月20日の日付で「共ニ働イタ人々 若宮士官室」という説明が付いた集合写真が貼られている。峰松さん本人も写っている。官報によれば、大震災時に若宮の艦長だった津留雄三氏はこの時、任を解かれている。最後に将校らで記念写真を撮ったのだろう。写真の裏には全員の名前が書かれており、峰松さんの部分には「航海士少尉」とあった。 アルバムはなぜ作られたのか。その背景を推し量る上で、気になる人物がいる。峰松さんと同時期に若宮に乗艦していた下山二郎さんだ。長崎の大村海軍航空隊から若宮に異動してきた人物で、若宮では航空長を務め、水上機の運用に責任ある立場だったとみられる。大震災後は霞ケ浦海軍航空隊の教官となり、航空術学生となった峰松さんを指導する立場にいた。アルバムの最後に、その下山さんの顔写真が大きく貼られているのだ。 峰松さんの軍歴を眺めていると、若宮の乗艦経験と下山さんとの出会いがパイロットの道に進むきっかけになったのではないかと思えてくる。推測になるがこのアルバムは、若宮で同じ釜の飯を食べ親交を深めていった2人が、震災を振り返り、私的な記録としてとどめようと考えて作成したものなのかもしれない。
期せずして日の目を見た今、これらの写真はさまざまな研究の基礎史料になると専門家から注目されている。