旧海軍パイロットが残したアルバムに、空から見た100年前の「帝都」 関東大震災直後、珍しい歴史的史料が示す軍艦・若宮の記録
防衛省防衛研究所が保管している海軍の公文書「公文備考」をひもといてみたところ、大震災後の1923年11月に若宮の鈴木義一艦長が当時の海軍省軍務局に提出した報告書があった。 この報告書によれば若宮は大震災が起きた時、中国東北部の遼東半島沖に停泊していた。知らせを受けて長崎・佐世保港でガソリンや食料、衣類、医薬品などの救援物資を積み込み、9月10日に神奈川・横須賀沖に到着。18日に東京・品川沖を出発し、翌日には静岡県・清水港に避難民約600人を送り届けている。そして10月5日に救援活動を終え、品川を離れたとある。 アルバムにも、報告書と符合する避難民の海上輸送の写真がある。おそらく峰松さんが実際に見た光景だろう。艦上の様子が分かる写真にはこんな記述がある。「一包ノ荷物之ガ家財ノ総デアル 慰安ノ蓄音機ニ耳ヲカス者モナク労レ切ッタ体ヲ船中所狭マシト計ニ横タヘタ」「落チ行ク先ハ?」 ▽危機一髪で火災から逃れ
アルバムには若宮の救援活動期間外に撮られたとみられる写真もある。たとえば、黒煙が上がる海上火災のさなかを避難する軍艦「榛名」をおそらく海上から撮った写真だ。 「東京震災録」という資料を見ると、現在の神奈川県横須賀市で1923年9月1日に海上火災が発生している。被災した重油タンクから油が海に流出したのだ。軍港に停泊していた榛名は、延焼を免れるため港外へ避難した。この震災録によると、その時の状況は「危機一髪の間に迫りしも、幸に災厄を免れ」と記されている。写真はまさにその時の様子を捉えたものだろう。 次は愛媛県宇和島市の航空写真だ。説明には「宇和島市 市制三周年ヲ迎へ祝賀ノ為ニ上空ヨリ」とある。宇和島市の誕生は1921年8月。3周年は24年8月。すると、アルバムが作成されたのは少なくとも震災後1年ほどたってから、ということになる。若宮と宇和島に何らかのつながりがあったことを推測させるが、大震災との関係は不明だ。