『光る君へ』権勢を誇示するあまり悪評広まる藤原道長、病に倒れるも三条天皇を退位に追い込む“復活劇”が始まる
■ 「道長の病を喜んだ」と噂された公卿たちの共通点 そのようにして、何かと主導権を握りたがる三条天皇に、自分の権勢を誇示した道長。だが、それは自分の横暴さを周囲に印象付けることにもなった。道長が病に倒れてしばらくすると、妙な噂が流される。 長和元(1012)年6月20日付の『小右記』によると、実資は養子である資平(すけひら)から、こんな噂が流れていると聞かされた。 「道長の病悩を喜んでいる公卿がいて、それは道綱・実資・隆家・懐平(かねひら)・通任である」 ドラマでは分かりやすく「怪文書がまかれた」ことになっていたが、実際は噂が広がっていたようだ。資平は「2~3人から聞いたことです」と立て続けに聞いたことを明かしている。現代で言えば「バズり始めている」といったところだろう。 名が挙げられている実資は、あれこれと思いを巡らせるも、特に思い当たるところはなかった。あるとすれば「立后の日、勅命に応じて参入した後、そのように思われる出来事があったか」とし、娍子の立后に参加したことがあらぬ噂を呼んだのかもしれない、と振り返っている。 確かに、「道長の病悩を喜んだ」と噂されている5人の公卿のうち、道綱以外の4人は娍子の立后に参加した者ばかり。道綱については道長の異母兄なので、道長亡きあとの有力者として名が挙がったのだろう。 実資は後ほど道長から「道綱と実資についての噂は信用していない」と伝えられている。道長からすれば、内容の真意よりもこういう噂が流れること自体に暗たんたる思いがしたことだろう。 『小右記』には、この時期に道長の周辺でさまざまな怪異現象が起こったり、呪詛の噂が立てられたりしたことも記述されている。 そもそも、道長が病に倒れた理由についても不吉な噂が流れていた。ドラマでもあったように、道長の三男・顕信(あきのぶ)が突然出家したため、比叡山で行われた受戒に参列しようと、道長は長和元(1012)年5月に比叡山に登った。 その時に道長が下馬せず山に登ったことで、怒った僧から石を投げられたという。ドラマでは、三条天皇がその話題について触れ、「石が飛んできただけでも祟りがあるらしい。しっかりと祓ってもらうとよい」と告げるシーンがあった。実際にその時の祟りで道長が病に伏せたという噂が流れたという。最高権力者の道長に厳しい視線が注がれていたことがよく分かる。