「辛くなったんです。だから29歳で止めた」直木賞作家・大沢在昌が明かしたデビュー作への想い
■私の本はまったく売れなかった。でも若かったから、未来には希望しかなかった
──佐久間公ものではない第2長篇の『ダブル・トラップ』を書いた時点で24歳。もうプロットなしで書けると判断されたんですね。その若さで迷いがないと言いますか。 大沢:迷うもなにも、そのころ私の本なんかまったく売れなかったんですよ。でも書き続けるしかなかった。書いていれば、そのうち何かあるだろうって。まだ若いから、未来には希望しかなかったんです。1980年代の前半はハードボイルド・ブームと言われて、私もいろいろな特集に引っ張りだされたりしたけど、冷静に見ていましたね。「これはハードボイルドじゃなくて、北方謙三さんのブームじゃないか」って。北方さんをはじめ、船戸与一さん、志水辰夫さん、逢坂剛さん、一緒にやっていた仲間が賞を獲ってブレイクしていく。私だけがずっと〈永久初版作家〉まっしぐらだったんです。1989年に勝負作『氷の森』を書いたけど空振りで、やけになって翌年『新宿鮫』を書いたら、これが当たった。 ──1980年代に書かれた佐久間公は、大沢さんにとって雌伏期の相棒ですよね。 大沢:そう。だから、公には良い思いさせてねえなって(笑)。後になって出した『雪蛍』と『心では重すぎる』は本としても売れたし、評価もされたんだけど、すでに私が50歳近くなってましたからね。若いときは公に、苦労しかさせてなかった。
■佐久間公は、自分の分身だという感覚がずっとあった
──糟糠の妻みたいなもんですね。 大沢:妻じゃないけど(笑)。公が自分の分身だという感覚はずっとありました。 ──佐久間公ものの最初の短篇集が『感傷の街角』ですが、印象深い作品はありますか。 大沢:「風が醒めている」は、原稿を落とした人がいて、代わりに書けって言われたんです。原稿用紙で60枚、実際には3、4日間で書いたんじゃないかな。それに山野辺進※さんが挿絵をつけてくださったんです。山野辺さんが「素晴らしい短篇だ」と言ってくださって、憧れの存在だったから有頂天になったのをよく覚えていますね。「あなたは必ず直木賞を獲るから、がんばって書きなさい」とも。実際に獲ったときは「僕が思ったより3年遅かったね」って言われましたけど(笑)。『感傷の街角』は毎回実験しているんですよ。本格ミステリー風あり、タイムリミット・サスペンスありで。主人公は人捜しをし、その過程で事件に巻き込まれる。事件の形を変えることでいろいろ試すことができました。 ※山野辺進 画家・イラストレーター。1960年代より、推理小説を中心に挿絵を多数描いている