黄色い涙を流す幼女を看取った母の闘病手記 胆道閉鎖症で亡くなった娘と向きった4年間
今思うと茉友香の死に対して にげていたのかもしれません 心の中でぜったい助かると思い願いつづけながらも 死というものをみとめたくなかった。 もっとそばにいて最後まで手をにぎっていてやればよかった。 後悔しています。 (略) 現実とは本当にきびしいものです。 でもにげることはできません 何事も正面からぶつかっていくのです。 何に対しても一生けん命やる。 すべて茉友香からおしえられました。 今私は この現実、茉友香の死から一日も早く立ちなおるようがんばっています。>
50枚綴じのB5ノートはあと10枚ほど残されているが、すべて白紙だ。そこまでに書き込まれた40枚、80ページに3年10カ月と17日の闘いが凝縮している。 ■Aさんの行方を探る このノートの記事を書くにあたってAさんに連絡をとりたいと思った。日記にはAさんの氏名はなく、ノートから情報を得ようにも、病院や実家の記述から岐阜県の南方で暮らしていることくらいしかわからない。しかも30年以上も前の記述だ。ノートを託してくれたSさんの次女も、ノート以上のことは何も知らないという。
それでもこの魂のこもった日記を「何か役に立ちたい」「皆さんで読んでもらいたい」と書き上げたAさんは、おそらく今もどこかで生活している。 長良病院が母体のひとつである長良医療センターに尋ねると、さすがに30年以上前のカルテは辿れないという。当時の主治医も姓しか記載がなかったこともあり、その後を調べることはできなかった。新聞記事や雑誌などで、当時のこの病気のエピソードを調べてもAさんや茉友香ちゃんに繋がりそうな情報は得られなかった。
残る頼りは「胆道閉鎖症の子どもを守る会」だ。ノートを手にした経緯とともに茉友香ちゃんの名前と病院名、生没年を伝えたところ、多忙な合間を縫って過去の名簿を調べてくれると言ってもらえた。 そして数日後、Aさんと電話で話すことができたと連絡をもらった。Aさんはすでに守る会から離れていたが、会員当時の携帯電話を今も使っており、何度か発信したところついに通話ができたという。住まいも当時と変わっていなかった。当時の電話を解約していて、引っ越ししていたら、連絡を取れる手段は完全に失われていた。