黄色い涙を流す幼女を看取った母の闘病手記 胆道閉鎖症で亡くなった娘と向きった4年間
そして、1990年春の3歳の誕生日もケーキで祝うことはできなかった。絶食と吐血。発熱を繰り返し、身体中にチューブが差し込まれた状態が長く続いている。 ストレスのせいか夏頃には髪が抜けるようにもなった。絶食が続く日々。それでも食欲があることは、日々の記述から読み取れる。 <茉友香はNGチューブからミルクをいれるだけで 口からはまったくのんだりたべたりできなかった 大部屋では皆それぞれにごはんやおかしをたべたりしている
私はできる限り茉友香にみせないよう努力した。 しかし本人は自分はたべられないのに人がたべているのをみたがった。 親の私からみれば何とも残酷だった でもとにかく「みたい」といって 茉友香はきかずじっと人がたべているのをみていた。> (1990年8月14日) 入院中は病室の空き具合や茉友香ちゃんの体調の具合によって、複数のベッドが並ぶ大部屋と個室を行き来した。大部屋では同病と闘う子と付き添いの家族がいて励ましてくれたが、見舞い客を含めて人と接することも増える。あるとき、事情を知らない人が茉友香ちゃんを見て「生後何カ月ですか?」と聞いてきた。この頃、体重は7キロを切っていた。
■流した黄色い涙 茉友香ちゃんの状態は日に日に厳しいものになっていく。この頃のノートには血液検査の結果を淡々と記す日記が連続しているが、基準値が0.2~1.2mb/dLとされるビリルビンの項目には「28.4」や「30以上」といった桁違いの数字が記されている。意識が朦朧とするなかで茉友香ちゃんが流した涙は黄色かったとも書かれていた。 <同じCBAの子があと2人入院していた 一人は1才半くらいで黄胆が強いという
もう一人は8才くらいで ねつと黄胆。 2人ともみるからに元気そうでうらやましかった。 この2人の母親は茉友香を見て いずれ自分たちの子も茉友香のようになるのかとものすごく心配し おそれていた 私は何も言ってやることができず ただ「まだ元気そうだからだいじょうぶですよ」というのが精一杯だった。> (1990年12月19日) 平成2年の年末も一時外泊の選択肢はなかった。状態は厳しい。それでもまた回復して、退院できることを願った。