黄色い涙を流す幼女を看取った母の闘病手記 胆道閉鎖症で亡くなった娘と向きった4年間
急変は平成3年=1991年の2月末に訪れる。身体中からの出血が見られ、茉友香ちゃんの呼吸が明らかに普通でなくなった。緊急で酸素テントに入れ、輸血する。少し長めだが、この日の日記をすべて引用したい。 <下血 9回 輸血 約1000cc 呼吸が一段とわるくなり メイロン、カルチコールを点滴からいれても効果ない。 ○○先生に今度こそ本当に覚悟するように言われた 人工呼吸器をつけても数時間もてばよいと言うことだった
でも母親の私にはたとえ数時間でももつのなら 心臓の動いているうちは反応がなくてもそばにいたかったため 夜呼吸器をつけてもらった。 意識がまったくなくなる30分くらい前に 茉友香は「おうちへ帰りたい」と一言いった。 それ以後は一言もしゃべらず挿管して10分くらいで自発呼吸もなくなり 瞳孔も開き 目もとじなくなり 本当にただ心臓だけが動いていた 挿管すれば呼吸が楽になりもとにもどるとばかり思っていたのに この時ほどショックは大きかった。
もうしゃべることもわらうこと、泣くこと、動くこと 何もしてくれない。 そばにいて「まゆちゃん」と呼んでも何も反応してくれない。 それでもまだ茉友香は生きている 心臓は動いている。 まけてはだめ 茉友香がんばって。 一生けん命 手足をさすったり頭をなでたりしました> (1991年2月28日) 「おうちへ帰りたい」 そう話した茉友香ちゃんはそれから意識を戻すことなく、1週間後の3月6日に亡くなった。 茉友香ちゃんが亡くなった日の日記のページをめくると、日付のない長文が書かれている。それがこのノートの最後の記述だ。
<今こうしてたった3年10ヶ月と17日の短かった茉友香の一生涯をまとめてみました 本当に毎日毎日がCBAとの壮絶な戦いでした 思いだすのは ただただ苦しんでいる茉友香の顔だけです 楽しかった日の思い出なんてほとんどありません CBAと宣告をうけた時は大変な病気だとは知らされてましたが はなしに聞くのと現実はまったくちがいます (略) 本当に最後は医師と看護婦にかこまれ 私はただ部屋の片すみで泣いているだけでした。