「ドイツ人目線」で読んだ小説『関心領域』の特異性とは?文筆家マライ・メントラインが紐解く
ナチズムの核心が文芸に「憑依」するとき、そこに何が見えるか?
ナチスは得てしてドイツ人ではない「第三者」によって描かれがちだが、ではドイツ人の内的言語でナチズムや親衛隊を語るとどうなるのか。邦訳が存在する作品では、『関心領域』巻末の参考文献でも挙げられているドイツ人ジャーナリスト、ハインツ・ヘーネの著『髑髏の結社 SSの歴史』がその好例といえる。 初版が1967年のルポルタージュであり、内容的に古いともいわれるが、「歪んだ論理の帝国」としてナチス親衛隊のドイツ的リアル感をこれほど的確に伝えるコンテンツはほかに例がない。なんというか、『関心領域』を印象派絵画とすれば『髑髏の結社』はドイツ表現主義アート的な感触だ。カフカ的ともいえる。要するにキモい。もしこれを小説化すると、読み心地以上に言葉のシンボル性の連鎖を重視するタイプの読者(私も含む)からは熱狂的に歓迎されるだろう。ただ、残念ながらそれでは商売的に引き合わない。 また、世の中にはなぜか他国人なのに第三帝国期のドイツ人を自然に再現できてしまう異能の人もいて、映画『ブレードランナー』の原作者として知られるアメリカのSF作家、フィリップ・K・ディックがそうである。近年、リドリー・スコットの手によりAmazon Prime Videoオリジナルとして映像化された、「第三帝国が勝利した世界」が舞台の長篇小説『高い城の男』に登場するドイツ人たちは、なぜか中身もスペック以上にリアルなドイツ人だったりする。そのなかで、日本の勢力圏に密使として派遣される国防軍情報部のドイツ人将校の「ナチズムとは要するに何なのか」を突き詰める独白が白眉なのだが、『関心領域』にも極めて似た感触の場面があった。詳細を記事末尾に表示する。 両者は、おそらく同じであって同じでない。ただ、同じものを見ながら書かれた文章だ、とはいえる。どこが違うかといえば、おそらく『関心領域』はギリギリ正気の河岸に立っており、『高い城の男』は一歩踏み越えた場所に立っている、ということかもしれない。それが最終的に何を意味するか、うかつなことはいえないが、英国の高級文学の精華とアメリカの通俗作家(というのが1962年時点でのディックの評価だった)の文章が、観念的にがっぷり心技体、いろんな面で互角に見えるという状況は極めて興味深い。そう、そういう知的考察の伸びしろという意味でも『関心領域』という言霊の含みはなかなか豊かだといえる。 ナチスがらみのコンテンツ、あなたは次にどこを自らの関心領域とするのだろうか? 「アインザッツグルッペンが百万人を優に超える人々をすでに銃殺したことはわかっている。彼らはどこへでも行っただろう──銃弾を携えて。想像してみてくれ。何百万もの女性と子供を。銃弾で。彼らには意志があった」 おれは尋ねた、「何が起こったんでしょう……われわれに? あるいは彼らに?」 ペータースは言った、「いまも起こっている。きわめて不気味で異様なことが。それを超自然的とは言わないが、それは単にわたしが超自然的な物事を信じていないからだ。超自然的な感じはする。彼らに意志はあったのだろうか? どこからそれを得たのだ? 彼らの攻撃性からは硫黄がにおってくる。まさに地獄の火のにおいだ。あるいはもしや、もしかしたら、それはきわめて人間的で、明白で単純なことなのかもしれない」 「それにしても、どうしてこんなことになったのでしょう?」 「もしかしたら、冷酷さは美徳だということを言いつづけると、こうなってしまうのかもしれない。ほかのあらゆる美徳と同様に、高い評価と権力によって報われるべきだと。どうなのだろう。死への欲求は……全方向に及んでいる。強制的な中絶、不妊手術。安楽死──何万人もの。死への欲求はまさしくアステカ族のそれだ。黄金期の」 「では、現代性と……」 「現代的であり、未来的でもある。ブナ‐ヴェルケが、ヨーロッパ最大にして最先端の工場であるはずだったように。それは、信じがたいほど古いものと混ざり合っている。われわれがマンドリルやヒヒだった時代にさかのぼる」 - (引用元:マーティン・エイミス著、北田絵里子訳、田野大輔監『関心領域』早川書房 2024年刊) 彼らの観点──それは宇宙的だ。ここにいる一人の人間や、あそこにいる一人の子供は目に入らない。それは一つの抽象観念だ──民族。国土。血。名誉。りっぱな人びとに備わった名誉ではなく、名誉そのもの。栄光。抽象観念が現実であり、実在するものは彼らには見えない。〝善〟はあっても、善人たちとか、この善人とかはない。時空の観念もそうだ。彼らはここ、この現在を通して、その彼方にある巨大な黒い深淵、不変のものを見ている。それが生命にとっては破滅的なのだ。なぜなら、やがてそこには生命がなくなるから。かつて宇宙には微塵と熱い水素ガス、それしかなかった。その状態がまたやってくる。いまはただの幕間、ほんの一瞬間にすぎない。宇宙的過程はひたすら先を急ぎ、生命を粉砕して花崗岩とメタンに還元していく。すべての生命は運命の車輪から逃れられない。すべてはかりそめのものだ。そして彼らは──あの狂人たちは──花崗岩に、微塵に、無生物の渇望に応じている。彼らは造化を助けようとしている。 その理由は、おれにはわかる気がする。彼らは歴史の犠牲者ではなく、歴史の手先になりたいのだ。彼らは自分の力を神の力になぞらえ、自分たちを神に似た存在と考えている。それが彼らの根本的な狂気だ。彼らはある元型にからめとられている。彼らの自我は病的に肥大し、どこでそれが始まって神性が終わったか、自分で見分けがつかない。それは思い上がりではない、傲慢ではない。自我の極限までの膨張だ──崇拝するものと崇拝されるものとの混同。人間が神を食いつくしたのではなく、神が人間を食いつくしたのだ。 彼らが理解できないもの、それは人間の無力さだ。おれは弱くて、小さい。宇宙にとってはなんの意味もない。宇宙はおれに気づかない。おれは気づかれずに生きている。だが、どうしてそれが悪い? そのほうがましじゃないのか? 神々は目につくものを滅ぼそうとする。小さくなれ……そうすれば、偉大なものの嫉妬をまぬがれることができる。 - (引用元:フィリップ・K・ディック著、浅倉久志訳『高い城の男』早川書房 1984年刊)
テキスト by マライ・メントライン / 編集 by 森谷美穂