「ドイツ人目線」で読んだ小説『関心領域』の特異性とは?文筆家マライ・メントラインが紐解く
小説版で感じ取れる「虚構の史実」を防止する工夫
「英国的」ナチ内面描写、これはこれで傑作として読めてしまうので、逆に大したものだと評価したいポイントではあるのだが、あえて極論をいえば、現実では実施されなかった英国上陸ゼーレーヴェ作戦が決行され、ナチスの軍門に下った英国を描いたレン・デイトンのSF小説『SS-GB』の世界、そしてその数年後、英国人が在イギリス親衛隊の高級将校となって絶滅・強制収容所を仕切るようになった、その世界での情景という印象が生じる。これはナチズムの根源的な問題を、より汎用的な内的言語で再構築してみせた、という面で重要な知的・文芸的成果といえる。 ……が、しかし。同時に、近現代史学界にいまなお横たわる「ナチズム現象は、果たしてドイツ固有のものだったのか、あるいは世界のあちこちで起こりうるのか」という重要な命題に、かなり大きな一石を投じることになるかもしれない。少なくとも、私の友人である東京女子大の柳原伸洋教授は(映画版を観て)その点を気にしており、特にエンディングについて、そのどちらでもない「第三の解釈」が可能ではないかという仮説を立てていた。その後彼は小説版も読んだはずなので、議論してみる必要があるだろう。 なお、ドイツ語以外の内的言語によるナチズム再解釈にもいろいろあり、たとえば2010年『ゴンクール賞』最優秀新人賞を受賞したフランスの小説家ローラン・ビネの『HHhHプラハ、1942年』は、ラインハルト・ハイドリヒというナチス親衛隊最強の魔人について「その核心を探るため、あえてフランス人として」もし自分がハイドリヒだったらこうする、といった憶測を積み重ねながら歴史の追体験と再構築を試みる、ある意味「不完全さを前提とした」興味深い実験文芸だが、なぜか「ハイドリヒの真実を描いた伝記の秀作」として大評判になってしまった。 これはいわゆる司馬史観の問題とも共通する話だが、「史実と文芸の混同」という問題を再提起させた感がある。『関心領域』、特に小説版で収容所の名称も司令官の名前も架空のものとしたのは、こういった懸念への対策なのかもしれない。とはいえ実名使用に踏み切った映画版に問題があるわけでもない。さすがである。