『光る君へ』周明(松下洸平)の胸に矢が突き刺さるシーンに視聴者最注目 第46話画面注視データを分析
壱岐の僧・常覚に蛮族の襲来を知らされる
2番目に注目されたのは20時21分で、注目度78.2%。壱岐の僧・常覚(タイソン大屋)によって、蛮族の襲来が知らされるシーンだ。 まひろたちが大宰府を発つと、入れ違いに1人の傷ついた僧が政庁にたどり着いた。「壱岐から来た、島分寺の常覚と申す。帥様に、急ぎお取次ぎ願いたい!」満身創痍のその僧は、政庁に入るやいなや、息もたえだえに大宰権帥・藤原隆家(竜星涼)への面会を願い出た。その剣幕はただ事ではないことを感じさせるには十分である。「3月の末、どこの者とも知れぬ賊が襲来、壱岐の子供と年寄りはすべて殺され、ほかの者は連れ去られました」「なんと…」常覚の報告は、隆家たちの想像をはるかに超えたものだった。「作物も牛馬も食いつくされ、僧も私以外は皆、殺され…私は小舟で何日もかかり…」常覚が涙ながらに語る惨劇に、隆家と大宰府の役人たちは息をのむばかりであったが、「よくぞ生きて知らせてくれた!」と、隆家は常覚の肩に手をのせその苦難をねぎらった。常覚の命がけの報告がなければ、蛮族の侵略を見過ごすことになっていただろう。 太宰府の役人・藤原助高(松田賢二)が「国守は何をしておったのだ」と聞くと、常覚は「国守様は殺されました」と、衝撃の事実を口にした。その場にいる全員が絶句する。事態は想像以上にひっ迫しているようだ。「敵は異国の者なのか?」「我らとは違う言葉を話します」「敵の軍勢は?」「よくは分かりませぬが、兵も船も多数…」隆家はかつてない未曽有の事態に戦慄を覚えた。
■「ここにきて血なまぐさいいつもの大河に」 このシーンは、「刀伊の入寇」の開幕を予感させる出来事に、視聴者の関心が集まったと考えられます。 「刀伊(とい)」とは、高麗語である「東夷(とうい)」を指す「toi」に、日本の文字を当てたとされている。筑前・筑後・肥前・肥後・薩摩の九州沿岸の都市はこれまで幾度となく新羅や高麗の襲撃を受けていた。それゆえ、太宰府の役人・大蔵種材(朝倉伸二)も賊が高麗からあらわれたと考えたのだろう。だが、実際には刀伊の正体はのちに金や清を建国する女真族だった。この女真族の本格的な侵略に、SNSでは「刀伊が民間人を襲う描写がめちゃくちゃ怖い」「ここにきて血なまぐさいいつもの大河になっちゃった…」「正体不明な敵が襲ってくるのってこんなに怖かったんだ」「平安貴族の京都での優雅な生活と必死で戦っている武士のギャップがすごい」といったコメントが集まった。 太宰府の緊迫した状況と、源倫子(黒木華)と赤染衛門(凰稀かなめ)の『栄花物語』をめぐるほのぼのとしたやり取りとのコントラストが印象に残った視聴者も多かったようだ。本シーンは「刀伊の入寇」の開幕を告げる重要なシーンだが、これだけの高い注目が集まったのは、やはり大河ドラマといえば合戦シーンという視聴者が多いのだろう。 今回登場した壱岐の僧・常覚は実在の人物だ。史実では島内の寺の総括責任者として、刀伊への反抗軍を指揮した。僧や地元住民とともに命がけで戦い、なんと刀伊の猛攻を3度も撃退した。しかし抵抗むなしく他の僧は全滅、常覚のみが大宰府へ落ち延びた。島民148人が虐殺、女性239人がさらわれ、無事だったのはわずか35人だけという悲惨な状況だったと伝わる。 常覚の報告の中に「牛馬も食いつくされた」とあったが、牛馬のみならず人肉も食していたようだ。日本で馬が食用されるようになったのは1592(文禄元)年に豊臣秀吉の行った文禄の役で現地で食料のなくなった加藤清正がやむなく馬を食したのが始まりとされている。牛にいたっては食べられるようになったのは明治時代からなので、牛馬や人肉を喰らう蛮族の姿は当時の日本人にとってすさまじい衝撃と恐怖を抱かせたと思われる。 そして、殺されたと報告された壱岐の国守・藤原理忠だが、島民が賊に襲われたとの報告を受けるとすぐに兵士を率いて賊の討伐に向かった。約3,000人もの賊に対してわずか147人で立ち向かい、壮絶な戦死をとげた。隆家以外にも気骨ある平安貴族はいたのだ。彼の奮戦がなければ常覚は生きて大宰府へたどりつくことはなかったかもしれない。