FM音源をめぐる関係者の回想 コンピューター音楽の民主化・ヤマハ『DX7』開発秘話
「『FM音源との出会いと挑戦』~チョウニング博士とヤマハOBによる座談会~」が2024年12月12日、静岡・ヤマハ本社で行われた。 【画像】DXシリーズのプロトタイプとなった『PAMS』 2024年は1974年のヤマハシンセサイザー第1号機『SY-1』発売から50年の節目。今回の講演はそれに伴った記念企画のひとつで、当事者たちがFM音源との邂逅から名機『DX7』開発に至るまでのエピソードを振り返る貴重な機会となった。 ■FM音源の発見 「FM(frequency modulation)」とは日本語で「周波数変調」と訳される。ラジオのFMと原理的には同様で「ひとつの波形に別の波形を干渉させて変調する」という概念だ。 特徴はシンプルなアクションで複雑な波形(=音色)を生み出せること。アナログで再現するのが難しかった、その金属的な音色はシンセサイザーだけでなくゲームやPC、懐かしの着メロの音源としても使われ、今や我々にとって身近なサウンドのひとつと言っても過言ではない。 これを発見したのが、現在90歳のジョン・チョウニング博士。彼はスタンフォード大学・音楽科における自らの作曲中、200Hzのサイン波に±200Hzのビブラートをかけ、それを極端に早くしていくと元の音色が変化することを偶然発見する。今でいうシンセサイザーのLFOによる音色変化のことだが、これがFMの最初の発見だった。 その後、彼はFMの原理についてさらに研究していくこととなる。そのシンプルな操作とカオスな音色変調をして、ジョン博士は「FM音源の一番の魅力は驚き。サプライズのない音楽はよくない。ダブステップもFM音源が多く使われていますが、遊びながら音を発見したのでしょう」と語った。 この技術に目を付けたヤマハは、1973年にFM音源のライセンスに関しての独占契約を結ぶ。その立役者となったのが加藤博万氏だ。彼はオルガンの自動演奏に興味を持ってアメリカの研究者を訪ねており、その帰りに「面白い話でもないかな」と訪れたのがスタンフォード大学のAIラボだったという。 当時のことを「原理が理解できなかった」と振り返る加藤氏。しかし「この技術はアナログでは難しいからデジタルで使うといい」と言うアメリカ人の研究者たちから背中を押され、本社に特許を持ち帰った。これについては日本のエンジニアたちも半信半疑だったらしい。 だが、スタンフォード大の実施例を見ながら試作したFM音源を鳴らすと、社内には「今までに聴いたことのない」ようなトランペットの音が響く。これが決め手となり、彼らは技術の可能性を理解することとなる。ただし、当時は主力ビジネスであるエレクトーンに組み込むものと考えられていたようだ。 ■すぐさま開発に乗り出し、試作機である『TRX』を元に『GS1』を世に送り出す ヤマハが具体的にFMへ踏み込んだのは1975年で、これには当時の開発責任者・持田康典氏の英断があった。加藤氏は「彼はすぐ放送の『FM』だと理解して、それなら自社の半導体で実現できそうだ、と瞬時に判断したんです。あとはジョンの熱心で紳士的、なおかつ余裕のある人格も決め手だった」と回想する。 試作機である『TRX(Touch Response X)』をアメリカのミュージシャンたちに試奏してもらい、改良を経て出来上がったのが、1981年に商品化されたFM音源搭載のシンセサイザー『GS1』だ。開発リーダー・山田秀夫氏によれば、「FM音源の持続音に可能性があると信じ開発をし続けた。その結果、この楽器が生まれた」のだとか。 講演会に来場していた元カシオペアのキーボーディスト・向谷実氏は「アルバム『MINT JAMS』で最初から最後まで『GS1』を弾きました。ノーエフェクトであの表現ができて、しかも88鍵なのは革命的だった」と楽器の思い出を明かした。またヤマハによれば、TOTOの名盤『TOTO IV~聖なる剣』(1982年)に収録された名曲「Africa」は、デヴィッド・ペイチが『GS1』のプリセット音からインスパイアされて即興的に作曲したという逸話もあるとのこと。 ■『DX7』は“コンピューターミュージックの民主化”をもたらした? そしてジョン博士をして「約100人の才能のあるエンジニアが8年にわたって取り組んだ成果であり、コンピューターミュージックの民主化」と言わしめたのが、80年代の名機『DX7』である。「どんな音でも出せる」というコンセプトで1983年に発売された。 開発リーダーだった西元哲夫氏は、学生時代に大阪万博でヤマハの自動演奏オルガンを見たことがきっかけで入社。好きなプログレのキーボーディストたちの使用機材にヤマハの名前がないことから「彼らに自分のデジタル楽器を使わせたい」と思い、楽器開発に邁進したという。 『DX1』の試作機は、1982年に米アトランタで行われた『NAMM Show』でお披露目された。TOTOのデヴィッド・ペイチやジェフ・ポーカロら著名ミュージシャンからも大反響で「これは絶対売れる」という確信のもと、大胆な3モデル同時開発・同時発売に踏み切った。ナンバリングが1から順番でなく「1、5、7……」なのは「奇数が好き」というプログレファンならではの理由からだそうだ。 この開発とデザインの裏にあったのは当時の技術革新だった。書き換え可能な不揮発性メモリ「EEPROM」や液晶が登場し、開発の途中で「新しい技術を全部取り込もう」という話になったという。さらに完成間近になって当時最新鋭の規格・MIDIが登場すると、すぐに採用。初期モデル以外の全モデルに実装した。当時の日本の技術が結集されて生まれた完全デジタル楽器、それが『DX7』だった。 とはいえ、今や伝説の楽器といえども当時のヤマハの稼ぎ頭はエレクトーンで、ライトミュージック部門の予算はかなり少なかったという。そのため、少しでも安いチップを使うなど、涙ぐましい企業努力をしたそうだ。こうした努力の末、『DX7』は大ヒット商品となり、ヤマハシンセサイザーの事業規模の拡大に貢献。現在のデジタルシンセサイザー事業の礎を築いた。先人のチャレンジは立派な事業に成長したのである。 ■技術者とミュージシャンの“せめぎ合い”から生まれた、80年代のサウンド 講演終盤には「『DX7』はミュージシャンに親切でない作りでもあった」という向谷氏からの鋭い投げかけもあった。これはアナログシンセの考え方と違う「アルゴリズム」や「オペレーター」という考えに、当時のプレイヤーが悩まされたことを指している。 さらに彼が重ねた「技術者の皆さんが可能性を提供してくれた。でもミュージシャンも頑張った。だから80年代の音楽が花開いた。今は、そういう音楽作りのせめぎ合いが少ない」という言葉には一考の価値があるだろう。 ヤマハと出会ってから何度も本社に足を運び、エンジニアたちとアイデアを交換しあったというジョン博士は「ヤマハのエンジニアたちは仕事に熱心で、働きながら感動してくれるんです。その姿に自分も感動した。ヤマハにはお礼を言いたい」と話す。彼自身も、日本で楽しむ食事はリンゴや旅館の味噌汁など、質素だった。それよりもエンジニアたちとの仕事に熱中したのだった。 研究者と技術者が早急な利益よりも「音作り」という点で、心を通じ合わせるコラボレーションを果たしたという点でも「FM技術」の意義は大きい。「働き方改革」という言葉がない当時、100時間も残業する社員もいたというが、彼らは激務ゆえに残業したのではなく、探求したいものがあるというクリエイター然とした考えで自主的に労働したのだとか。その結果、今のヤマハシンセサイザーやFM音源の豊穣がある。 『DX7』によるコンピューターミュージックの民主化以後、1994年に特許が切れてから今に至るまで、他社から多くのFM音源を搭載した機材が発売された。その音色に我々は当たり前のように親しんでいるが、原点に研究者とエンジニアたち、そしてプレイヤーたちの汗と涙と創造が滲んでいることを忘れずにいたいと思う。
文=小池直也、画像提供=ヤマハ株式会社