2015年、沖縄と「日本」の関係はどうなるのだろう ノンフィクションライター 藤井誠二
仲村さんは、大阪の此花区の出身だ。彼の祖父は1900年生まれで、大正時代に東京に出稼ぎに出た直後に震災にあって大阪に来た。その後、父親を大阪の呼び寄せ、1958年に仲村さんが生まれた。そして、16年前に沖縄に移住。大阪生まれの「沖縄人」、つまりウチナンチュ二世だ。2014年、知事選・衆院選で沖縄は政府の思惑をきっぱりと拒否する結論を出した。仲村さんとそのことを振り返った。 「1995年の米兵による少女暴行事件が発生するまでは内地では基地問題はほとんど無視されていたのが現実です。今もそういう部分はあるのですが、それまでは沖縄イコール基地ではなかったわけです。それが米兵による少女暴行事件をきっかけに沖縄の怒りが爆発し、日本の尻尾が、胴体を動かすような状態になりました。当時、いま首相にしたい人は誰かというアンケートがあったのですが、前の知事の太田昌秀さんが一位に選ばれましたということからも沖縄の怒りの深さがわかります」 仲村さんから、米軍基地の話になると、“県民感情”という言葉で一括りにしてしまうメディアへの批判をよく聞いた。 「県民感情という言葉は“反基地感情”と同義語で、基地問題と絡めて使わることが多く、“県民の総意”という言葉もその延長線上にある。沖縄問題には政治問題、経済問題、雇用問題、貧困問題、自然破壊などいろいろあるけれど、沖縄とヤマトの間で溝が深まっているのはこの基地問題です。 僕が移り住んだのは1996年ですから、少女暴行事件の一年後。その後の16年間には、辺野古への新基地建設があったり、サミットがあったり、沖縄ブームがあったり、さらには民主党政権になり、鳩山首相の『(普天間の)最低でも県外』発言があったり、さまざまな問題が起こりました。いいかえれば、沖縄とヤマトがお互い嫌でも向き合わなければならない時期であったし、事実、お互い腹の底を探りあった時期だった。だからこそ、とことん対話をして、互いが互いを理解しあえる時期にすべき16年間だったと思うんです。にも関わらず、結果的には沖縄とヤマトの溝がいちばん深まった16年になってしまった。