自分の肉体の衰えを「おもしろいと思った」――内村航平、体操キングの強靭かつ「変態的な」メンタリティー
あくまでも、努力の人。前代未聞の戦績の数々は、内村自身が人生をかけて挑んだ血の滲むような練習の結果だ。しかし、時に人の不断の努力は、思わぬ奇跡や偶然すら引き寄せる。内村が現役生活最後に出場した大会=2021年の世界体操選手権は、生まれ故郷の北九州市で行われた。 「運命を感じましたね。『うまくできすぎだろ』って。東京オリンピックは無観客だったので、観客がいる中で試合ができたっていうのは幸せでしたし、歓声がすごく温かくて、ここまで続けてきてよかったなと思いました。引退発表後に、『残念です』と言ってくださるファンの方もいたのですが、『さすがにもう無理です……』と(笑)。これからはやっぱり違う形で、皆さんに喜んでいただかなきゃいけないのかなというのは思いました」
他の人には見えない「景色」が見えた
1989年1月3日、福岡県北九州市に生まれた内村は、3歳の頃に母・周子の実家がある長崎県諫早市に移り住む。体操選手だった両親は「スポーツクラブ内村」を運営。内村自身が体操を始めたのも、ごくごく自然なことだった。 「(体操は)遊んでいる中で勝手に始めていったという感じです。両親は一切強要はしなかったですね。うまくなってほしいとか、やりなさいとか言われたこともなくて。本当に自分の好きなようにやらせてくれる両親でした」
人見知りでシャイだった幼少期の内村は、お世辞にも人気者というタイプではなかった。「友達から『バク転して』って言われて、くるっと回ってみせるみたいなことはありましたけど。小学生の頃は全くモテなかったですよ」と、笑う。子どもの頃の記憶として覚えているのは「(体操で)回っていることだけ」。体操選手以外の夢も特になかった。唯一淡い思い出としてあるのは――。 「警察官、白バイ隊員になりたいとは思っていた気がします。バイクが好きだったのと、妙に正義感のあるタイプだったので。でも、体操だけ楽しくやっていければいいや、としか考えてなかったと思います。体操に体力を使いたいので、他のスポーツにも一切興味が湧かなかったですね。勉強は苦手だったし、嫌いでした(笑)」 しかし「体操は好きだったが、決して最初から得意だったわけではない」と、内村は言う。体操の基本的な動きである「蹴上がり」を習得するのが、クラブの誰よりも遅かったという記憶は、内村の中に強く残っている。徐々に着実に練習を重ねる中でその才能を開花させていった彼が、「自分には『特別なもの』があるかもしれない」と自覚し始めたのは中学生の頃だったそうだ。 「他の選手と、『技やってると、こういう景色が見えるよね』という話をしてたら『何それ、そんなの見たことないよ』って言われて。『あれ、もしかして自分だけなのかな?』って思ったんです。それを親にも話してみたら『多分、空中感覚がいいからそういう景色が見えるんじゃない?』って言われて。その時から、もしかしたら、自分には他の人にはない何かがあるのかもって思うようになりました」