【プロ1年目物語】木田勇 入団交渉時に土地要求のドラ1新人、圧巻22勝でタイトル総なめ!/第1回
10月7日の近鉄戦、引き分けでも後期Vが決まる超満員の後楽園球場で2回裏に日本ハムが1点先制すると、3回無死二塁のピンチで早くも木田を投入。しかし、佐々木恭介にタイムリーを打たれ同点に追いつかれ、4回表には集中打を浴び、まさかの3失点を喫して勝ち越しを許す。呆然とマウンドにしゃがみ込む背番号16。しかし、この状況でもなお木田は8回途中までの5回3分の2を投げ続けた。絶対的エースを攻略された日本ハムのショックは大きく、1点差に追い上げるのがやっと。このあと西武に連勝した近鉄が逆転優勝をさらい、木田のプロ1年目は終わりを告げた。 1980年の木田の最終成績は48試合(26先発)、253投球回、22勝8敗4S、防御率2.28、225奪三振、勝率.733。最多勝、最高勝率、最優秀防御率、最多奪三振(※当時は連盟表彰なし)と投手タイトルを総なめ。シーズン毎回奪三振3ゲームの新記録に32イニング連続奪三振のプロ野球タイ記録といった個人記録はもちろん、ベストナインとダイヤモンドグラブ賞に加えて、新人王と史上初のルーキーでMVPにも輝いた。その先にメジャー移籍やWBCのような目標もなかった時代、木田は1年ですべてをやり切ってしまったような雰囲気すらあった。
悔いが残る1年目オフの過ごし方
翌81年は4月こそ順調に勝ち星を重ねるも、次第に相手打者がパームに手を出してくれなくなり、カウントを取りにいった直球やカーブを狙い打たれる。5月後半から不調に陥り、ミニキャンプを敢行したが10勝10敗で閉幕。並の投手なら合格点でも、木田の場合は1年目の活躍があまりに衝撃的だったため、物足りないと思われてしまう。81年の日本ハムは後期に東映時代以来の19年ぶりの優勝を飾り、プレーオフでもロッテを下して巨人との日本シリーズに進むが、木田は第4戦に先発するも4回1失点で降板。決して、肩やヒジを痛めたわけではない。肩への負担が大きいパームも多投は避けていたほどだ。27歳とまだ若く、体力にも自信はあった。 だが、1年目を終えた80年オフの過ごし方だけは悔いが残ると木田は引退後に振り返っている。毎日のように取材を受け、歌手デビューを飾った『青春・I TRY MY BEST』のレコードは2万5000枚プレス、年末の紅白歌合戦の審査員にも呼ばれた。契約更改では希望額には届かなかったものの144%アップの年俸1320万円で一発サイン。横浜に8000万円の2階建て6LDKの家も買ったあの栄光と喧噪のオフシーズン。 「オフは、イケイケです(笑)。自分がしっかりしてないといけない時代でした。当時はオフになると取材がたくさんあって、1日3本も4本も受けていました。日本ハムにそれだけのスターがいなかったから、しょうがないんです。オファーがあったら、全部OK。週刊誌で誰々と対談だ、テレビの歌合戦の収録だ、と毎日ですよ。ここぞとばかりに球団も「日本ハム」をアピールしたかったんじゃないですか」(1974-1987日本ハムファイターズ後楽園伝説/ベースボール・マガジン社) プロ野球にはときに既存の価値観や常識を変える、「時代」そのものを体現する新人が現れる。90年代の野茂英雄や松坂大輔、80年代でいえば清原和博であり、この木田勇だった。 若さで突っ走れる夢のような時間はあっという間に過ぎ去ってしまう。木田の直球のスピードは年々落ち、85年はわずか2勝に終わり、コーチから投球フォームをいじられると胸の中で「アンタに言われたくねえよ」と不貞腐れた。見かねた球団常務の大沢啓二が「お前、ウチにいてももうダメだろ」とトレード先を探してくれ、31歳で地元の大洋へ移籍。新天地1年目の86年に8勝を挙げ規定投球回にも達したが、90年に中日へ移籍してその年限りで現役を引退する。通算273登板、60勝71敗6セーブ、防御率4.23。彼の生涯成績を知る野球ファンは少ないが、キャリアの始まりの衝撃はいまだに伝説として語り継がれている。 わずか1シーズン、例え一瞬でも、プロ野球界の頂点に駆け上がらんばかりの強烈な光を放つ煌めく才能があった。その左腕、1980年の木田勇。今から44年前、「アメージング・ルーキー」と呼ばれた男である。 文=中溝康隆 写真=BBM
週刊ベースボール