【プロ1年目物語】木田勇 入団交渉時に土地要求のドラ1新人、圧巻22勝でタイトル総なめ!/第1回
「意外と素直じゃないか」
「いいですか。お嫁さんを選ぶときにも候補者が何人かいれば、自分の気にいった人を選ぶのが当然でしょう。選ぶ権利があるはずでしょう。ところが、ドラフト制はどうですか。選ぶ権利がない。本人の意志を無視している。こんなバカな制度がありますか。息子はパ・リーグは嫌いだといっているんですよ」(週刊ポスト1979年12月14日号) 我が子を想う木田の父が「日本ハムは指名前にこっちに挨拶も何もなかった」と記者に愚痴った言葉が活字になり広まり、木田本人は日本ハムとの三度目の交渉で土地を要求したことにより、多くの批判にさらされた。日本鋼管の大先輩で日本ハムのエース高橋直樹には川崎市の寿司屋で会うなり、初対面にもかかわらず「お前なぁ」と呆れられたという。 「入団を表明する前に、高橋直さんと会ったでしょう。(中略)「ウチのチームにこい。プロになる以上最低の条件は“試合に出られる”ということ、それだ」っていってくれたんです。「あとはお前の努力次第だぞ」って。プロ入りしようと思いはじめた矢先だったので、その一言できまりました」(週刊ベースボール1980年4月21日号) 25歳、プロ入りの最後のチャンスという自覚もあった。結局、契約金6000万円、年俸540万円で12月13日の4度目の交渉で仮契約を発表。サラリーマン時代は月給11万5000円だったことを思えば、夢のような金額だった。なお、土地要求については、木田もそこまでの騒ぎになるとは思っていなかったという。 「球団オーナーの『土地は出さん』のひと言で、私もすぐに引き下がり、一件落着しました。契約金は税金で引かれたら4000万円ちょっとになってしまうので、6000万円分の価値のある土地をいただいてもいいのかなと。単純にそう考えただけでしたし、契約に関しては当事者以外の人に批判する権利はないと思っています。結果的には、この一件で『生意気なヤツ』という印象を与えてしまったようで、メディアの影響力は怖いと感じましたね」(プロ野球「ドラフト1位」という人生の“その後” 第一回選択希望選手―選ばれし男たちの軌跡/横尾弘一/ダイヤモンド社) ベテランの多い投手陣からは「生意気なヤツがくる」と警戒されたが、いざ自主トレやキャンプで木田と顔を合わせると、「意外と素直じゃないか」と可愛がられる。明るく人懐っこいルーキーは、物怖じせずに先輩たちを質問攻めにして距離を縮めた。“親分”こと大沢啓二監督も高齢化したベテラン揃いの投手陣で、25歳の木田に大きな期待を寄せた。 「あれは契約金6000万円に土地100坪つけろなんて言ったけど、現代っ子だなあ。しかし、はっきりした自分の主張を持つのは、大したものだと思うんだ。これはなかなかいえんぞ。ワシはその点は感心した。ええ心臓してる。プロ向きの子だよ」(週刊現代1980年3月20日号) 大沢親分率いる日本ハムの環境で、木田はノビノビとプレーする。オープン戦で広島の山本浩二に2本塁打を浴びると、マウンド上から「コノヤロー、コノヤロー」なんて声を出して投げ続けた。主力の個性派レギュラー野手たちも、そんな向こうっ気の強い新人を受け入れる度量があった。 「(オープン戦で)柏原(柏原純一)さんが打って勝つたびにぼくがヒーロー扱いされて翌日の新聞に出るのはぼくでしょ。なにかわるくって。柏原さん、「コラアッ、またお前か」って(笑)。そういうことをいえる雰囲気というの、いいですね」(週刊ベースボール1980年4月21日号)