ドナルド・トランプの知られざる「敗北と栄光」、若い頃から貫く「戦い方の信条」とは
若きトランプは「信用を得る」ために何をした?
1968年にウォートン校を卒業したトランプ氏は、父親の会社で働きながら不動産取引や投資の知識を身に付けますが、父親がクイーンズやブルックリンでのビジネスだけを行うのに対し、マンハッタンへの進出を考えるようになります。 当時、トランプ氏はすでに20万ドルの財産を持っていましたが、ニューヨークの不動産市場は過密気味で価格が高く、若いトランプ氏には手が出せませんでした。それでもマンハッタンのアパートで暮らしながら、つてを求めて、トランプ氏はニューヨークのエリートたちが集まることで有名なLe Club(ル・クラブ)に入会。多くの人と知り合い、さまざまな物件のことを知るようになります。 1973年、大きな転機が訪れます。ニューヨーク市の財政状況の悪化に伴いマンハッタンの不動産業界も不況に見舞われますが、トランプ氏は破産申請中のベン・セントラル鉄道が所有するハドソン川沿いの広大な鉄道操車場跡地に目を付けます。 トランプ氏は、土地の処分を任されているヴィクター・パルミエリ氏と交渉、跡地の開発を請け負うことになります。その際、27歳のトランプ氏は父親から引き継いだ会社を、大企業らしい響きを持つ「トランプ・オーガニゼーション」に改名、わずかな寄付をしただけの有力な政治家と付き合いがあるかのように振る舞うことで相手を信用させています。 若きトランプ氏にとって相手の信用を得るには、服装も重要でした。黒のピンストライプのスーツに白のワイシャツ、頭文字を刺しゅうしたネクタイといういでたちで相手のオフィスに乗り込むことで、若さゆえの「君にできるのか?」という疑念に、「自分に不可能なことなどない」と思わせることに成功しました。当時のことを自著で次のように話しています。 「私は飛ぶ鳥を落とす勢いの起業家風の服装をした」 (『でっかく考えて、でっかく儲けろ』p175) マンハッタンで何の実績を持たないトランプ氏に対して、大手の不動産業者から「トランプはいろいろでかいことを言っているようだが、実績はあるのか?」(『トランプ自伝』p129)といった嘲笑する声もありましたが、トランプ氏は6,200万ドルで買収に成功します。 「勝つためには法の許す範囲ならほとんど何でもする」 (『トランプ自伝』p131) こうしてマンハッタンの不動産業者として最初の一歩を踏み出したトランプ氏は、次にベン・セントラル鉄道が所有するコモドア・ホテルを買収します。赤字を垂れ流し、何年も税金を滞納する荒廃したホテルでしたが、立地は最高で、もし変身させることができれば、成功は間違いなしに思えたのです。 しかし、当時のトランプ氏はまだ若く豊富な資金も持っていませんでした。そこで、ニューヨーク市から40年間もの財産税の免税処置を受ける(代わりに手数料と利益の一部を払う)とともに、ハイアットのトップと交渉、コモドア跡地にグランド・ハイアット・ホテルを建設、その後の運営はハイアットが担当するという契約を結ぶことにします。 交渉にあたり、当初トランプ氏はハイアットの担当者と話しますが、遅々として進まず、最終的に大株主のジェイ・ブリツカーと話すことで合意します。 「大事な取引をする場合は、トップを相手にしなければラチがあかない」 (『トランプ自伝』p150) 大統領となってからも見られることですが、これがトランプ氏の信念です。