関電の金品受領問題 第三者委が会見(全文8)三十数年前とは時代が変わっている
どのレベルで判断したのか
朝日新聞:分かりました。そこで報告された内容というのが矮小化されてということはこの中にも書いてございましたけども、先ほどおっしゃった1億円っていう金額を出そうかという案もあったけれども結局取りやめた。これはどなたの判断だったんでしょうか。 司会:ここはディテールのとこなんで申し上げますと、これはいろいろな資料を見る中で、もともとわりと億単位というようなことを言おうとしていたような形跡があったけれども、最終的に現場ではそういうことは言われなかったようであります。それはどなたの判断かということまでの明確な認定はなかなか。録音があるというわけでもないので、できていない状況です。 朝日新聞:大別して言いますと、事後のように岩根さん、八木さん、森さんのような首脳陣のレベルの判断なのか、あるいは社内調査委員会の委員レベルの話、もしくは事務局の段階、どの段階で決められたことなんでしょうか。 司会:なかなかそこのそもそもやや非公式な何々会とか、コンプライアンス委員会とか、取締役会、常務会というようなものでもないので、なかなかそこの詳細なもともとの経緯については認定に至ってございません。
節目、節目で関わりの深い立場の人はいたのか
朝日新聞:分かりました。最後にですけれども、例えばこの2018年以降のガバナンスに関しては責任のある方として岩根さん以下3人の方のお名前が挙がってございますけれども、翻って金品受領だとか、それを見過ごしてきたガバナンスの不全という、この長期的な、それこそ1987年以降といってもいいかもしれませんけども、この30年余りに関する責任の取り方として、なかなか総括して言うっていうことは非常に難しいと思うんですけれど、例えば節目、節目で非常に濃淡で言うと濃いお立場の方というのがいらっしゃったのか。これをお聞かせいただけますでしょうか。 但木:どういう、ですかね。この30年間の変化は1つは美浜の事故、2005年でしたかね。美浜の事故っていうのがありまして、美浜に原子力事業部ができるまでっていう期間があるんですが、これはわりと順調な期間なんですね。順調な期間で、かつ森山さんについては彼の権威が残っている、確実に残っている。つまり功労者としての色彩が非常に強い時期なんですね。この時期の特徴としては金額が少ないんです。あまり多い人はいない。1人ぐらいしかいないですね。 第2期が美浜時代ですね。この時期は、だから原子力事業本部のもともと大阪にいた人たちにその金品が渡るっていう時代ですが、あんまり大きな金額が頻発するっていうことはありません。これもまあまあ。この時代は複雑で、森山さんの権威は前ほどはないんですよ、やっぱり。失われていくわけ。むしろ森山さんは幹部の人を呼んで3・4号機を造るときにどれほど自分は努力したかっていうことを盛んに言って、かつその暗い部分も俺が知ってて、その証拠も持ってんだと、こういうことを盛んに言っている時代なんですね。