「自民完勝」日本政治史初の年金が争点の選挙 政治、メディア、積立金に翻弄されたエリートたちの全記録『ルポ年金官僚』より#2
事務局には新たな、そして最も重要な仕事が舞い込んできた。7月23日、福田赳夫政調会長の下に発足した、自民党国民年金実施対策特別委員会の事務方としての作業だ。委員会を率いるのは、大蔵次官に上り詰めた後に政界入りし、吉田茂内閣で建設大臣などを務めた大物・野田卯一。2021年の自民党総裁選に出馬した野田聖子の祖父である。 小山にとって悩ましいのは、国民年金創設に向けて「4頭立て」で進んでいたことだった。厚生省、特別委員会、厚生省内に設置された国民年金委員、総理の諮問機関・社会保障制度審議会(制度審)である。
制度審は、大蔵大臣要請を再三断ってきた財政学の重鎮、大内兵衛・法政大総長を会長とし、絶大な権威を誇った。一方で国民年金委員も、元大蔵次官の長沼弘毅・公正取引委員会委員長をトップに学者や財界の第一人者で構成された。互いに牽制し合う関係になってしまったのだ。国民年金事務局内で激しく議論された「拠出制か無拠出制か」にしても、制度審は無拠出制、国民年金委員は拠出制を重点に置いていた。 そこで小山はどうしたか。ほぼ無視するのだ。
それから年月が経過していない『週刊社会保障』(1959年8月号)の寄稿「国民年金制度周知月間を迎えて」で、小山は隠し立てすることなく振り返っている。 もうこの段階に入ったら何はともあれ自分達の考えでまとめるより外はないと判断し、どちらへも伺いを立てることは一切しないことにした。同様に省内に対しても連絡は最小限度に止めることで我慢してもらうことにした。 ■結婚の儀前日に法案成立 岸政権は衆院選での公約を守るべく、1959年1月30日、国民年金法案の閣議決定に漕つける。国民年金準備委員会事務局発足から10カ月という早業であった。
国会審議は、スムーズすぎるほどだった。4月8日、修正案を参議院が可決、翌9日、衆院に回付され、法案はわずか2カ月で成立した。大事業にしては、拍子抜けするほどのスピード成立である。 その日の午後──。オンボロの厚生省仮庁舎2階に、スーツ姿の官僚や女性職員、30人ほどが集まった。雨に濡れた窓の外には、前年12月に完成したばかりの鮮やかな赤色の東京タワーがそびえていた。 やがて紙が配られた。そこには尋常小学校唱歌『二宮金次郎』の替え歌が書かれてあった。