【退職代行は“正義”なのか?】若者の働き方に飛び交う「やさしさ」、本当に自分のためとなる選択とは
それは「やさしさ」か、それとも「甘やかし」か
そもそも、こうした「やさしさ」が本人にとって真に「優しい」のかも疑わしい。 たとえば、業務で新たに自転車に乗ることが不可欠になったと仮定しよう。一度も転ばず自転車を乗りこなせるようになる人は稀であろうが、だからといって「自転車に乗せようとしたらハラスメント」「練習で転んだから二度と乗らない」に類した主張が正当化されるべきだろうか。 いかなる言い訳をしようが、「必要な業務が遂行出来ない」というシビアな現実からは逃れられない。「上司が代わりに乗ればいい」「自転車なんて廃止しろ」などの他責や代替案で解決しない場合、どうするか。 もし「自転車に向いていないから諦める」というなら、その選択も尊重されるべきではある。事実、SNSなどには「嫌ならすぐ辞めるのが最適解」「退職される会社のほうに問題がある」「ダメな人間関係はすぐに切れ」に類した、逃避と他責を正当化する「やさしさ」とそれを称賛する声が頻繁に「バズって」いる。もちろん流行りの退職代行を使い辞めるのも自由だ。退職代行業者は望み通り、「やさしく」お客様扱いしてくれることだろう。 ただしその場合、「自転車に挑戦することで得られたかもしれない新たなスキル、それを生かした未来の選択と可能性」が失われる。自転車程度なら取るに足らないと思うかもしれない。しかし、これがたとえば「パソコン」「電話の使い方」であったらどうか。そして実務経験から得られるスキルのほとんどは、「パソコン」「電話」ほど判り易く可視化などされていない。 一事が万事、あらゆる仕事や困難を選り好みして避け続けることは、「実務経験の機会損失」「そのまま歳を取る」を消極的に選ぶことを意味する。また、安易な転職を繰り返すことで逃げ癖が付いたり、転職活動の際に「仕事が出来ない可能性がある」「トラブルを起こしやすいのではないか」など、何らかのリスクや問題を抱えていると疑われることもある。 社会における人脈は思いの外に狭く、意外なところで繋がっていたりもする。「ガチャ失敗」「リセマラ」感覚で人間関係を容易く「切る」新人は、それらのリスクと不利益を本当に理解しているだろうか。