「眉目秀麗な村で唯一人の大学生」26歳で処刑された下士官の姿を探して~28歳の青年はなぜ戦争犯罪人となったのか【連載:あるBC級戦犯の遺書】#71
県職員の採用試験合格 祝いの席から連れ出され
(「成迫忠邦さんの思い出」武田剛) 敗戦で忠邦さんは復員、私の留守中、戦死した兄のお悔やみに来てくれたという。忠邦さんは間もなく県職員の採用試験に合格。身内だけのささやかな祝いの席から戦犯として連行されたという。私は復員した忠邦さんに会うことはなかった。 国立公文書館に収蔵されている法務省の資料によれば、成迫がスガモプリズンに入所したのは、1947年6月30日。石垣島事件は、敗戦後すぐは表に出ず、密告から発覚したという事件なので、本格的調査が始まったのは1947年になってからだった。前後の文脈から推察すると、祝いの席から連行されたのは、その年の1月、福岡での取調べのためだったと思われる。 1948年3月16日に宣告された死刑判決の知らせは、成迫の故郷、木立村にかつてない衝撃を与えたという。木立村での戦死者は105人だったが、「戦犯で死刑」は、また別の凄いショックだったと、武田さんは書いている。すぐに助命嘆願の署名が行われ、ほとんど全住民の署名が集まり、当時、村長を務めていた武田さんの父がそれを持って上京したそうだ。しかし、住民たちの願いは叶わなかった。 〈写真:判決を受ける被告たち〉
再審も死刑は覆らず
(「成迫忠邦さんの思い出」武田剛) 昭和24年(1949年)の三月初めに役場の村長宛に、みんながすがる様な気持ちで待った再審の結果が届いた。あの助命嘆願の効なく再審も死刑だった。父はそれをすぐに成迫家に届けねばならなかったが、中々出かけようとしなかった。夜、フスマ越しに父の嗚咽を聞いた。兄の戦死以来である。それも元村長の家に、老いた母のもとに。父も足が重かったのであろう。 〈写真:横浜軍事法廷〉 武田剛さんの文章には、500戸の村で唯一人の大卒青年が戦犯となり、更に死刑判決を受けたという知らせに村中が衝撃を受け、悲しみに暮れた様子が切々と書いてあった。私は武田さんを探したー。 (エピソード72に続く) *本エピソードは第71話です。