「眉目秀麗な村で唯一人の大学生」26歳で処刑された下士官の姿を探して~28歳の青年はなぜ戦争犯罪人となったのか【連載:あるBC級戦犯の遺書】#71
終戦間際、沖縄県石垣島で米軍機搭乗員3人が日本兵によって処刑された石垣島事件。敗戦後、米軍による戦犯裁判で死刑になった7人のうち、2人は下士官だった。28歳の藤中松雄と26歳の成迫忠邦だ。藤中松雄の法廷での姿は確認できた。しかし、成迫忠邦は人の影になって顔がみえない。若くして命を絶たれた青年の顔写真を探していたところ、ある写真に行き着いたー。 【写真で見る】氏名不詳の目鼻立ちの整った海軍制服姿の若い青年
教誨師の遺品にあった数枚の写真
「スガモの父」と慕われた田嶋隆純教誨師。田嶋教誨師の遺品の中に5枚の写真が入った封筒があった。写真の裏には何も書かれていないが、1枚は井上乙彦大佐、1枚は田口泰正少尉、1枚は藤中松雄一等兵曹。いずれも海軍の制服姿だ。そして1枚は背広姿の幕田稔大尉だった。つまり、5枚のうち4枚は石垣島事件で死刑になった人物の写真だ。残る1枚は若い男性で、真っ白の制服に身を包んでいた。目鼻立ちの整った綺麗な顔をしている。この青年が成迫忠邦なのだろうか。年齢には矛盾がない。 アメリカの国立公文書館が所蔵する石垣島事件関係の写真の中には、1947年12月3日に撮影された、法廷に並んでいる被告たちのグループ写真が4枚あった。その1枚に藤中松雄が写っていることは、遺族によって確認がとれている。その他の写真に写る人たちも、日本の国立公文書館にあった石垣島事件の被告人名簿や座席表などと突き合わせて、誰が写っているかは、ほぼ判明した。しかし、成迫が座っている位置はわかっても、残念ながら人の影になっていて顔が見えない。 〈写真:海軍制服姿の青年〉
判決を受ける被告の中に面影の似た人が
一方、3ヶ月後の1948年3月16日の判決日に撮影された写真の人物は、特定作業が行き詰まっていた。MPと弁護士に付き添われて立っている被告の写真が30数枚あるのだが、そのうち10枚近くは、誰なのか判らなかった。これらの写真は、顔がはっきり大きく写っているので、すでに判明している被告人席のグループ写真の顔と見比べて同じ人物を探せばよいのだが、3ヶ月が経過するうちに髪が伸びて印象が変わってしまうのと、座席に座っている写真と立っている写真ではカメラアングルが違うので、同じ人物かどうかを見極めることが難しかったのだ。そして、グループ写真で顔が見えない成迫は、写っていたとしても特定のしようがなかった。 そうした状況の中、石垣島事件に関係がありそうな、白い制服姿の若い男性の写真が出て来たのだ。判決日の写真のうち、まだ誰か特定できていない写真と見比べてみた。すると、華奢な雰囲気の若い男性の写真に目が留まった。男性は目を閉じていて、制服姿の顔と比べると、頬がすっきりしているが、顎や耳の形が似ているようだ。2枚の写真を見て成迫忠邦かどうか、確認できる人を探した。 〈写真:石垣島事件の法廷 1948年12月3日(米国立公文書館所蔵) 立っている人の後ろが成迫の席〉