「眉目秀麗な村で唯一人の大学生」26歳で処刑された下士官の姿を探して~28歳の青年はなぜ戦争犯罪人となったのか【連載:あるBC級戦犯の遺書】#71
成迫忠邦を直接知る人
成迫忠邦の故郷は、大分県佐伯市。山間にある木立という集落だ。地元の歴史を調査研究している佐伯史談会が発行した「佐伯史談210号」(2009年7月)に、木立在住の武田剛(こう)さんという方が、「成迫忠邦さんの思い出」という文章を残していた。 (「成迫忠邦さんの思い出」武田剛) 私の村・木立に成迫忠邦さんという眉目秀麗な大学生がいたが、学徒出陣で戦争に行き、戦犯になり二十八才の若さで処刑された。その忠邦さんの痛恨の思い出を書きたい。私が小学校二~三年の頃、中学生の兄が自転車の後ろに乗せてくれて忠邦さんの家に連れて行ってくれた。忠邦さんは兄より二つ三つ年下で中学一年か、二年だったと思う。 武田さんの文章によると、成迫忠邦の父はすでに亡くなっていたが、元村長だった。実家は大きな農家で、母屋の前には二階建ての蚕室があり、中学の学校林を手入れする生徒が50人も寝泊まりできるほどの広さだったという。 〈写真:石垣島事件で判決を受ける男性 1948年3月16日(米国立公文書館所蔵)〉
500戸の村で唯一の大学生
(「成迫忠邦さんの思い出」武田剛) 忠邦さんのお母さんが母屋の縁側でパインの缶詰をごちそうしてくれた。うまかったので汁まで飲み干した。その空カン一杯、忠邦さんは近くのくぬぎの木をゆすってクワガタを捕ってくれた。カンの中のクワガタのガサガサいう音がまだ耳に残っている。 私が中学になった頃、道でばったり忠邦さんに会った。日本大学の角帽をかぶっていた。五百戸の村で大学生はたった一人だったと思う。忠邦さんは満鉄に行った兄のことをたずねてくれ、角帽をぬいで私の頭にかぶせてくれた。その頃小学生だった私の家内は忠邦さんが学校に来てオルガンを弾いたのを覚えているという。白いズボンをはいていたそうだ。 戦況が悪化し学徒出陣が始まると、成迫忠邦は海軍を志願したという。出征が決まると、成迫家は地元で指折りの見事な杉山と、近所の人が大事にしていた名刀とを交換して、持たせたそうだ。 〈写真:大分県佐伯市木立〉