暗殺予告を受けていたのに避暑地に…ロブスター獲りの最中に爆殺された、とある伯爵家の歴史
1979年8月27日の朝。アイルランド北西の沿岸部にある小さな港マラグモアで、7人の家族連れが停泊していたボートに乗り込み、海へと出て行った。前の晩から罠を仕掛けておいたロブスターを獲りに行くためだった。午前11時45分頃、突然ボートが爆発した。乗員3人が即死し、1人は翌日亡くなった。同じく海に放り出された3人はけがを負ったものの、命に別状はなかった。 助かったうちの1人、それが事件の直後にマウントバッテン女性伯爵(Countess Mountbatten)となったパトリシアである。なぜ悲劇は起こったのか。英国貴族史研究の第1人者である君塚直隆氏の『教養としてのイギリス貴族入門』から抜粋して紹介する。 ***
ドイツ出身の一族
パトリシアの祖父はドイツ人だった。祖父のルートヴィヒ・アレクサンダー・フォン・バッテンベルクは、ドイツの名門ヘッセン大公家の次男の家に生まれた。しかし父が身分違いの結婚(貴賤婚)によって継承権を剥奪され、哀れに思った大公妃アリスが従弟のルートヴィヒを自身の故国イギリスへ渡らせる。アリスはヴィクトリア女王の次女だったのだ。 イギリスに帰化し「ルイス」となった彼は海軍将校の道を歩んだ。そして1884年にはそのアリスの長女ヴィクトリアと結婚する。アリスは1878年に急逝し、以後彼女の娘たちはヴィクトリア女王が母親代わりに面倒を見ていた。ルイスの妻となったヴィクトリアもそういう背景で彼とイギリスで出会ったのだ。
第一次大戦で受けた屈辱
2人は2男2女に恵まれた。ルイス自身も海軍で順調に出世し、ついに1912年には制服組のトップである海軍第一卿(日本でいう海軍軍令部長)に就任する。ところが突然、家族を悲劇が襲うことになる。第一次世界大戦(1914~18年)でイギリスとドイツが戦うことになったのだ。このような時世にドイツ出身の軍令部長はよくない。開戦からわずか2カ月後にルイスは解任される。 また戦争の長期化で、イギリスでは「ドイツ憎し」の風潮がさらに強まった。王室自体もそれまでのドイツ系の家名を「ウィンザー家」に改めた。同様に、ドイツ系のバッテンベルクも「マウントバッテン」と英語名に替えられ、ルイスはイギリスの地名を冠した「ミルフォード=ヘヴン侯爵」に叙せられた。 こうした一連の事態にルイスは衝撃を受け、失意のうちに1921年にこの世を去った。この父の屈辱を生涯忘れず、必ず父の汚名をすすいでやるとの野心に燃えたのが、末っ子のルイス(1900~1979)だった。彼自身も、それまでヘッセン大公家に敬意を表して「ルイス公(Prince Louis)」と呼ばれていたのが、一夜にして「ルイス卿(Lord Louis)」に格下げにされた屈辱を経験していた。 ちなみに、ルイスの年の離れた長姉アリスはギリシャ王家のアンドレアス王子と結婚した。2人のあいだの末っ子がのちにエリザベス女王と結婚するフィリップである。また次姉ルイーズも、スウェーデン国王グスタヴ6世アードルフと結婚し、王妃となった。